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「高学歴ワーキングプア」 水月昭道 著

副題は「フリーター生産工場」としての大学院、となっています。大学院博士課程を修了した後、大学で教えるという仕事に就くことが現在では非常に難しくなっていることについて書かれています。人文系では特にそれが顕著だということです。

かつては大学院に進む学生は研究者志望のごく少数でした。ところが1991年に文部省が打ち出した「大学設置基準等の改正」により大学院生増産計画が実行に移されることになったのです。各大学は予算欲しさや大学の格を上げるために、競って大学院を作りました。大学院を維持するためには学生が必要です。教授の誘いに乗って博士課程に進んだものの、卒業後、企業にも就職できず、さりとて大学が生き延びれるかどうか、という時代に大学での職を見つけるのも難しくなってしまいました。こうして高学歴ワーキングプアと言われる人達がたくさん生み出されたのです。

もちろん学問の世界にもスーパーエリートは居ますが、能力はあってもポストが無い故にコンビニで働く博士も少なくないのだとか。学問の世界では、どこかの大学に属していないと学会での発表もできず、いろいろな資料へのアクセスも難しくなるのです(これはおかしいですね。どこにも属すことなく在野での発表の可能性や、大学図書館の開放などが必要でしょう)。そのために博士号を取得しても就職浪人という形で学費を払ってでも大学に残る人もいるのです。

査読というレフリー制度にも現在では矛盾が出てきています。昔は博士課程単位取得後、博士論文を提出することなく教員になる人も少なくありませんでした。ところが今は博士課程終了時に博士論文を提出し、それが認められることも普通になってきました。そういった人は論文を書く事にも習熟しておりレフリーペーパー(査読のある学会誌への投稿論文)を何本も持っていたりします。しかしながら査読をする側が博士号を持っておらず、時によってはレフリーペーパーも持っていないこともあるというのです。

本当に大変なのだなぁ、ということがよく分かります。ところが終りに近い第六章で一つの光明が見えてきました。それは「大学教員職にこだわらない」という生き方です。大学院で身につけるのは、「知識という武器を身にまとい、それを上手に使って、世の中の諸現象の背景にある本質を見抜き、その解決策を考えること」(西山夘三)であれば、それを別の分野にも生かすことはできるはずです。34歳のある男性はIT関連会社の経営者となりました。「学問を身につける段階において獲得したさまざまな技能やフレームワークは、多くの分野に転用できるものです」と彼は述べています。そして「立場に囚われることから離れる」という言葉を口にしています。捨てるのではなく、こだわらなくなった時に新しい生き方が見つかるようです。自分が設定した期間、やるべきときは脇目もふらずにやる、けれど何事にも区切りをつけてやる、ということだそうです。

また「社会貢献がしたい」という漠然とした思いがあるとするならば、その漠とした目的を持つ領域(Zone of Finality)に向かって進んで行くことが、人生の歩む際の指標になり得るのではないか、という示唆を著者はしています。(立命館大の学生卒論「中国人留学生の目的意識とその変容に関する質的研究」)

そして、アメリカでは大学院生の多くが時間とお金に余裕ができた時に学問をするために入ってくるのだとか。彼らは決して大学の教員を目指すために博士号を取るわけではありません。自らを豊かにするためにチャレンジするのです。そういった人々が社会のなかに”いる”ことの意味は大きいと著者は言っています。生涯教育として、大学院の果たす役割は大きいものがあるようです。私個人は、大学院では学問や知に対する誠実さが涵養され、また自分個人の利益のためではなく人々のために研究する姿勢が大切であることをより感じる場所でもあるような気がしています。                

大学院は大学の経営のために運営されるべきものではありません。お金のための経営になってしまって、「精神的基盤」というものが抜け落ちると簡単におかしな方向に進んでいってしまうのだと著者は言います。学生を利用するのではなく、個々の学生に「慈」の気持ちを持つことが大切です。                                                   おそらくそれは学校だけに留まらないと私は思います。組織というものが存続していくためには不可欠なものなのではないでしょうか。助け合える組織、そして「利他」の精神を持つ組織であることこそ大切なのだろうと思っています。

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