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「いじめの社会理論」 

6月3日に内藤朝雄氏のいじめに関する本を取り上げました。その際、「いじめと現代社会」については、なんとか書きましたが、「いじめの社会理論」の方は書名を挙げただけに終わってしまいました。http://peerskansai.blog85.fc2.com/blog-date-20070603.html


今日、改めて「いじめの社会理論」の方に再び目を通したのですが、ちょっと難解でうまく纏めることができません。もしイジメについて深く理論的なことがお知りになりたければ、どうぞじっくり本をお読みになってくださいませ。以下、私なりに本の内容のごくごく一部ですけれど、書いてみたいと思います。


   


戦前は国家というものが全体主義体制に陥っていました。「個人は国家の側から自己が何者であるかを知らされるような仕方で生かされ、国家に献身する限りにおいて個人の生は生きるに値するものとなる。当然、このような善い生き方は個人に強制すべきである。個人の自由と国家の共通善が対立する場合には国家の共通善を、個人の権利と国家のきずなが対立する場合は国家のきずなを優先すべきである」といったようなものでした。


現代日本は先進国水準の民主的統治機構を持っています。しかし今は国家ではなく、学校や会社といった中間集団の中に全体主義の座が移動したと著者は言います。(p.21)


それを解体するには、各人が自由に距離を調節し、ねばりつく関係性に対してよそよそしく距離をおいて生きる権利を保証するのが正解である、ということです。しかしいまだに共同体のきずなを説く人が、とりわけ教育共同体のきずなを大切にしようとする人が教育関係者に多いと著者は指摘します。


例えば「賢治の学校」を主催する鳥山敏子は、そのセミナーで加害者と被害者の「気持ちのぶつけあい」をさせ、被害者にとっては屈辱的体験を再演することで癒そうとします。けれど、それは内籐からすれば被害者の自罰と内向化をもたらすに過ぎないということです。(p.53)


p.109には登校拒否の子どもが精神科医に「学校なんて行かなくていい」と言われたことで家庭内暴力が始まり、父親は自殺してしまったケースを取り上げています。生徒が「重症の学校病患者」の場合、まずは加害者へのしがみつきを共感的に受容して、その後、タイミングを見計らって被害者の加害者へのしがみつきを心理的に切断し、構造的な問題に切り込んでいくという作業が求められます。けれど、時に人々はそこを混乱して、この精神科医とは正反対に学校制度そのもののあり方を全肯定してしまう、という陥穽に嵌まることもあると著者はいいます。


学校共同体では「単純明快につきあわない」ということができない。朝から夕方まで過剰接触状態で「共に育つかかわりあい」を強制する学校では、たとえ赤の他人であっても「友だちみんな」と一日中顔をつき合わせてベタベタしなければならない苦痛があると言います。(p.131) これに対して、内籐は教育チケットというバウチャー制度を提唱しています。(p.280) 過疎地ではうまく機能しない制度ではないかしら、という気も少ししますが、自由度を高めるということはもっともっと考えられてもいいことでしょうね。


p.262から「自由な社会の構想」について述べられています。Aさんにとっては「このおかげで生きていける」というものはBさんにとっては醜悪きわまりない。Cさんにとっての幸福はDさんにとっては退屈そのもの。Dさんが生きていることを実感するきらめきはEさんにとっては底冷えのする嘘の世界。本当に人の好みや生き方はさまざまです。けれど自由な社会では、互いに相容れないスタイルで生きる人が、平和に共存しなくてはなりません。全く別のタイプの生を生きる人たちを、いつも目にして生きることを我慢しなくてはなりません。自由な社会では、自分にとって醜悪なものが大手を振って生きていくのを見ることに耐えねばならぬとしても、自分がそのスタイルに巻き込まれる心配はしなくてもいいのです。各人が自分なりのやり方で美しく生きる試みを可能にするのが、著者の言う「自由な社会」なのです。


こういった社会を保証する行政であってほしい、と私も切に望みます。それとともに、子ども達には学校という限られた空間で息が詰まっているなら、そこから逃げる手段はきっとあるよ、そして明けない夜はないよ、と言いたい気持ちです。


                                                                 

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