海外子女教育振興財団の月刊誌「海外子女教育」8月号の本の紹介に載っていたので読んでみました。
教師とは生徒との権力関係において常に権力者であるべきではなく、生徒から学ぶ存在でもあって、絶えず関係を再構築していく心構えが必要であると書かれています。教師として身に付けてしまった分厚い衣について、よく考えてみましょう、ということですけれど、これは親子関係にも大いに当てはまりそうに思えました。
読んでいて何箇所か、私の心に留まったところを挙げて、感じたことを書かせていただきますね。
p.55には著者が接した帰国子女の体験が書かれています。高校生帰国生徒が食堂へ入って「五目そば」を注文しようとして、「ごめそば」と言って通じない。それを同じ帰国生徒の友達が「違うよ。いつつめそばだよ」と言って、やっと店員さんが「ごもくそば」とわかるといったエピソードです。これは友達が同じ帰国生徒だったから良かったんですけど、日本で育った人だったら、どういう反応をするかしらと思うと、帰国子女が辛いかもしれないなあ、という気がしました。私も子どもが「丹波路快速」という電車名を「タンバロ・かいそく」と読んだ時は、思わず笑ってしまいましたが、日本で育っていないと大和路(やまとじ)のように路を「じ」とは読めなかったりするんでしょうね。でも、今時、日本で育っていても読めない人も居るんですけど、本人はコンプレックスを持ったりしてしまうのかもしれませんねえ。
p.62には「不適応」イコール悪いことではない、ということが書かれています。私は本当にその通りだと感じています。不適応そのものは本人にとって辛いことです。けれど他人(時には親)から見れば、可哀相には思っても、成長の糧になると思ってしまったりもします。対峙する人(教師、時には親)は不適応から目をそらさず、どう関わっていけばいいのかは試行錯誤であっても、一緒に考えていくことが大事なのだろうと思います。そうすれば、後で振り返ったとき、そこで一つ成長をしたと感じられるのではないでしょうか。
p.66では「摩擦はよくないものだ」という考えがあるけれど、失敗やコンフリクトによって集団というものは成長していくのだと書いてあります。それは著者の運営した大学内の多文化クラスでの経験に基づいています。成功した時期よりも、試行錯誤の時期にこそ実践としての意義があったように感じているそうです。摩擦は回避すべきものではなく、摩擦に向き合い、粘り強く付き合うことで、そこから学びが生まれる、という意見には私も激しく(?)同意します。スマートさだけを求めていてはダメなのでしょうね。
p.139では構築したイメージに捉われることなく、常に最初の見方とは異なる批判的かつ複眼的な見方をすることが大事だと書かれています。自分が「理解していた」と思っていた世界を「実は理解していなかった」と気付くのは辛いことですけれど、一度持ってしまったイメージが必ずしも正しいとは限りません。自分の思い込みに気付くことは大切です。私も思い込みが強い方ですけれど、再構築をすぐしてしまう方らしく、子どもには「コロッと変わり過ぎ」なんて言われることもありますが、でも「気付き」は大切ですよね(笑)。
p.143には「教師は、学習者自身が過去と現在、未来を繋いでいくサポートをする立場」であり、「こうあるべきだ」と設定して示し導く作業ではなく、学習者と共に『今、ここ』を共有しながら一緒に歩いていくプロセスに関わっていく」ものだと書かれています。それにも強く同意いたします。教師と学習者だけではなく、親と子もそうですし、このブログでの私も常に皆様と共に歩いていく立場であることを崩したくないと思っています。
p.167から168には面白いエピソードが書かれています。海外に10年間暮らしていた帰国児童とその母親が「日本語教室」にやってきます。そこで親が教師に「海外に長い間いたので、あまり日本語が話せないんです」と言うと子どもの表情が硬く緊張したものになりました。その後、他の大人が母親に「海外のどこにいらしたのですか」と聞くと、「アメリカの〇州です。ご存知ですか」と答え、「いいところですよね」「ええ、とってもいいところですよ。気候も穏やかで自然もあって」と答えると、みるみる子どもの緊張がゆるみ、安心したような表情になり笑顔も出たそうです。親の一言で子どもの気持ちが如実に変わるのですね。ぴっかりさんのブログでも、子どもの緊張感や感情抑圧について書かれていましたけれど、親の言葉に子どもは耳を澄ましているのですねえ。いつもポジティブな気持ちでいたいものです。
p.176には「人の話を聴く」ときに、相手が何者かを即座に判断せず、「判断を留保」してありのままの相手とつきあってみましょう、と書いてあります。それはもやもやとした感覚をもたらすかもしれませんが、そのもやもやと粘り強くつきあうことが大切だとあります。確かに人はすぐに相手を判断しようとするきらいがありますよね。けれど相手をとりあえず判断せずに聴くということを、もう少し大切にする必要があるような気がします。早々とイメージというか固定観念を作って話を聴いていては、相手の本当に言いたいことや良さにも気付かなくなってしまうことでしょう。
ここでも一つエピソードが書かれています。帰国がイヤだという生徒の言葉を教師は「帰国は辛いよね」と簡単に理解してしまいます。でも、そこでちゃんと聴けば「Aちゃんと離れるのがイヤなのだ」ということがわかってくるのです。私も子どもと会話をしていて、そういうことが度々ありました。親の感覚というか、大人の常識といったことで判断してしまっていて、よーく聞いているうちに私とは全く違った感覚で捉えていることに気付くことが今でもあります。その感覚というのは、兄弟で分かり合える子どもならではの感覚であったり、兄弟同士でも分からないその子独自の感性であったりします。自分の固定観念で話を聞かず心をまっさらにして聴くということは難しいけれど、よーく聴いているうちに分かってきたりするものなんですよねえ。親子ならコンフリクトを厭わずに、しっかり聴けると思います。私は親しい友人ならば、他人でもそうありたいと思っている方ですが、皆さんはいかがでしょうか。