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福田平八郎展と平安神宮の杜若(かきつばた)

京都国立近代美術館(岡崎)で福田平八郎展を見てきました。明治25年~昭和49年まで生きた日本画家です。京都伏見に長く住んでいらしたようです。            昔、画集で見た「漣(さざなみ)」が私には大変印象深かったので、ぜひ行ってみたいと思ったのです。(作品はこちらのブログで一部見られます→ http://blog.so-net.ne.jp/now-and-forever/2007-05-07


地下鉄東山駅を降りると、市内を流れる清らかな白川沿いに岡崎公園に向かいます。途中、親子で網を投げている人が居ました。何を獲っているのか尋ねたところ、答えてくださったのですが、今、その名前が思い出せません。老化? 「今日は  いーひんなあ」と言いつつ帰って行かれました。


白川の清流白川の清流投網している人投網していた人

美術館につくと今日が最終日で混んでいるかと思いましたが、それほどでもなく、ゆっくりと鑑賞することができました。「漣」「雨」「筍」は自然をよく観察した上でのモダンな装飾性が印象的ですが、それまでには花鳥画もあり、古典を能くした上での作品ということがわかります。写生帖も興味深いものでした。甘鯛やみずみずしい桃や茄子などには、食欲がそそられました。(お腹がすいてた?いえ、写実が確かだからです、きっと) 福田平八郎の色彩の美しさも私の好きな点です。マチスのような色使いというか。


見終わると、ちょうどお昼過ぎ。平安神宮のそばの京料理「手桶弁当」で有名な六盛へ行きました。20分ほど待ちましたが、その間、お店には琴の音が流れ、京都らしい雰囲気です。それに、なんと「舞妓さん」が二人、三味線を手にした「芸妓さん」が二人、お店の中のドアから現れ、奥のほうへ行かれたのです。鮮やかな色目の着物が美しい! そういえば、美術館を出てから六盛へ向かう間にも、ほんとに、たくさんの着物姿の人を見かけました。京都は着物人口が高いです!古都ですねえ。 なお、余談ですけど、六盛というのは、明治25年以後、錦林学区内6地域(岡崎・吉田・聖護院・東山・浄土寺・川東)の学校運営の審議担当だった学区会議員の組織「六盛會」に由来しているそうで、このブログと全く無縁ではないような気がしました・・・。                           


六盛の玄関六盛の玄関座敷席から外を見たところ座敷席より
お席に案内されると、そこは緑の滴る疎水側の座敷席でした。まず小さな茶器に、ほんのちょっぴりの梅昆布茶が出てきます。しばらくして手桶弁当。とーっても美味しいでした。六月のメニューだそうですが、炊き込みご飯は薄味で、出汁の香りが楽しめます。湯葉が入った木の芽風味の味噌汁、様々な炊き合わせ。夫は天麩羅付きにしていましたが、私のには胡麻豆腐が付いていました。どれもこれも美味しくいただきました。生麩のお団子には柚子味あんこが入っていました。お勘定をしていると、結婚式のご親族でしょう、黒留袖や単の訪問着を着た人たちがお店にたくさん来られました。平安神宮で結婚式をして、六盛で披露宴なのでしょうか。


六盛の手桶弁当六盛の手桶弁当平安神宮の神苑平安神宮神苑

そのあと平安神宮へ向かいました。神苑に入ると、そこは緑が豊かで、植物には名札が立てられていて、植物園のように勉強になります。残念ながら杜若は、まだ満開にはなっていませんでしたが、開いている花は大変美しいでした。もうしばらくしたら、きっと満開になると思いますので、足を運んでみてくださいませ。池の中の飛び石はちょっとだけスリルがあって楽しいでした。睡蓮も美しく開いています。


杜若杜若睡蓮 睡蓮
道中は車窓から田植えを見、京都では緑美しいお庭を楽しんだ6月初めの一日でした。


なお、帰りにすぐ近くにある京都市勧業館(みやこめっせ)という建物に寄りました。そこの地下では、京都の職人による様々な工芸品が展示されています。また作業の様子を映した画像も流れています。ちょっと大きな子どもさんにとっては、職人の仕事、また日本の伝統の技の素晴らしさを実感できる場所ではないでしょうか。

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テーマ:京都・奈良
ジャンル:旅行
「いじめと現代社会」 「いじめの社会理論」 内藤朝雄 著

内藤朝雄氏は「ニートって言うな!」の著者でもあります。                  まず「いじめと現代社会」(2007年2月発行)について。この本は大変読みやすいです。1章では本田由紀氏との対談、5章は宮台真司氏との対談になっています。4章は国家について述べています。


                              

「はじめに」で書かれているのは、社会には二つのタイプがあるということです。他人の振る舞いや態度をつつく人に満ちた社会(「教えて治に至る」タイプの社会)と、そうでない寛容な社会(リベラルなタイプの社会)です。前者では特定の善い生き方を他人に押しつける社会で、人の目を気にして生きなければならない精神的な売春に満ちた社会です。リベラルな社会では、必ずしも共感し合えたり理解し合えたりできるとは限らない十人十色の「善い生き方」が不透明に奥行深く分布します。生活の質(QOL)を高めるためには、こういった右でも左でもないリベラリストの独立勢力が増すことが必要なようです。


1章では暴力系のいじめとコミュニケーション操作系のいじめがあるという話がされます。男子では暴力系のいじめが多く、女子ではコミュニケーション操作系が多いということで、暴力については告訴といったような方法で、コミュニケーション系については学級制度を廃止するといった方法で、「他の人と親しくすればよい」というような閉域を開く方法が提案されています。本田氏は最近、若者の間でコミュニケーション系の圧力の結果、「場の空気を読めないヤツ」といった言い方が出てきているといいます。また「勉強はわけのわからないことに慣れる練習だ」といったような、若者を不条理や矛盾に耐えさせる言説を憂慮しています。内藤氏は親が親であることを忘れて「教育」に欲情すると、子どもは親を失って教育施設の孤児になると言います。教育は「望ましい(とされる)チャンス空間の提供」であるべきだといいます。ベタベタした「教育」ではなく、学校は単に能力の養成の場ということなのでしょうね。


2章では社会をあげての、青少年ネガティブキャンペーンが張られていると言います。「犯罪の増加」「ニート」といったものがそれです。また右派と左派それぞれが、個々の論点を論じるのではなく、すべての論点を抱き合わせセットにしてしまっているといいます。例えば左派の人権擁護弁護士が山口の母子殺人事件で容疑者の死刑を免れさせた時にガッツポーズを取って、人権の何たるかという基本を外してしまったと言います。また、それを右派は利用して人々を煽ろうとすると。内藤氏は人間の尊厳や人権をすべての基本として考えるべきであって、理念的には死刑に賛成だが技術論的には反対なので、終身刑をつくるべきだと唱えます。


3章では2章にもかなり通ずるところがあるのですが、社会が、そして大人が青少年に対してネガティブなイメージを持ってきている。その一例が、より厳しくなった地方自治体の「青少年条例」に見られるといいます。むしろ現代の青少年は優しく穏やかになってきているのにもかかわらず。戦後日本では、国家というよりも学校や会社といった中間集団共同体に全体主義の座が移動したと著者は述べます。右翼も左翼も自分達が主張するものを理想化し、異なるきずなを生きる人々を本来の姿から外れていると批判し、本来の人間の姿を取り戻すための社会変革を目指すという、まさに「地獄への道」は善意に敷きつめられているというわけです。著者は一人ひとりが自分の最適な姿を求めて生きるようなきずなユニットのチャンスに恵まれた社会こそ、自由な社会だと考えます。


4章は少し長いのですが、現在の日本の社会の右傾化傾向への危惧を書いています。人権、自由、平等といった西洋の価値を価値下げして、日本らしい文化を入れようとする動きを懸念しています。著者は国家を一人一人の人間の共存と福祉のための公共財である機械装置と考えています。それに対して国家を一人一人の人間の生命を超えた、より高次の集合的生命とする国家観があり、それは時に人を狂わせる興奮剤になってしまうといいます。普遍的なヒューマニズムという超越性に準拠した社会秩序がメイン秩序として有効に作動し続けることが、先進国には絶対必要な機能要件と著者は考えます。「なぜ人を殺してはならないか」に理由があることこそ怖いことなのです。「友か敵か」「愛する者か、憎む者か、無関心な者か」といった原自然感情を超えた普遍的な超越性に準拠した社会秩序がメイン秩序として有効に作動し続けることが先進国には絶対的に必要な機能要件である、とも語っています。


最終章である5章は宮台真司との対談になっています。ここでは様々な社会事象、とりわけ人間関係について議論が交わされます。しかし、二人に共通して感じられるのは、自由闊達さです。精神的売春を強いる社会に抗うという点では非常に似ています。そして二人は「永遠に暫定性の地平で踏みとどまるタフさが倫理的に大切である」ことに共感します。「不完全な社会」がダメなのではなく「不完全さに耐えられない社会」がダメだということなのです。


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さて、いじめについては、もう一冊の本「いじめの社会理論」(2001年7月発行)で詳しく分析されています。また近いうちにレジメを書いてみます。


(最近、学校訪問で忙しくしています。近日中に書きたいとは思っているのですが・・・)

テーマ:いじめ
ジャンル:学校・教育