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英語の地図帳

先日、大海研(大阪府から日本人学校・補習授業校に派遣された先生方の会)にお邪魔した際に、事務局長から教えていただいた本です。日本の学校では誰しもお世話になった帝国書院の地図帳の英語バージョンだそうです。 地図帳の後ろに載っている資料的な地図も英語で記載されています。海外に持って行かれてもいいですね。現地の方にお見せできそうです。


上記でも中身が見られますが、他にこちらでも別のページが見られます↓http://www.teikokushoin.co.jp/products/map_guide/tachiyomi/discover/_SWF_Window.html

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「かがくのとも」 「ちいさなかがくのとも」 「たくさんのふしぎ」

 4~6歳向け「かがくのとも」は11月号で500号、3~5歳向け「ちいさなかがくのとも」は7月号で100号。小学校3、4年生向け「たくさんのふしぎ」は3月号で300号を迎えるそうです。http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/100301/acd1003010805004-n1.htm

 学研ホールディングスの「科学」と「学習」の休刊など、情報満載の学習雑誌が苦戦を強いられる一方、1冊1テーマが特徴の科学絵本は、発行部数は少ないものの根強い人気を誇っているのだとか。

発行部数は「かがくのとも」が約9万部。40年代のピーク時の約28万部に比べれば激減したが、ここ数年は大きな増減はないという。「ちいさなかがくのとも」は現在約5万部、「たくさんのふしぎ」が約2万3千部と、それぞれ堅調な人気となっているということです。

最近、Hideyoさんのブログ「北京の青空ーその後」から「日経キッズプラス」が休刊になったことを知りましたが(http://kidsplus.nikkeibp.co.jp/index.html)、子どもを巡る雑誌にも息長く続いているものがあると知り、少し安心しました。

『小さい”つ”が消えた日』

この本は小さなお子さん向けというより、ちょっと大きな方のほうが良いのかもしれません。というのは、使われている単語が少し難し目だからです。 でも、そのコンセプトは小さなお子さんにも十分通じるものですし、五十音を擬人化しているという点で、文字に対しての感覚が鋭敏になるように思います。 そして優しさも育つように感じる本です。

小さい”っ”というのは、単独では発音されない文字。その小さい”っ”ちゃんが他の五十音から存在価値を否定されて、悲しくて旅に出てしまいます。 でも小さい”っ”が無いとうまく言葉を話したり、綴ったりすることができません。例えば裁判で「訴えます」が「歌えます」になってしまって、混乱が起きたり・・・。

海外に住んで、小さい「つ」を教えるのはなかなか難しいものです。そして小さな「よ」や「ゆ」なども。そんな時に、こんな本を読み聞かせると、その重要性が感覚として掴めることでしょう。 そして、どんなに小さくて存在が目立たない者にも繊細な心があり、存在価値があるのだと実感させることができるように思います。 


きくきくドリル  ~ 人の話を注意深く聞けますか? ~

先日の相談会に、「きくきくドリル」の著者である村上裕成先生がお越し下さいました。
      
  
     

「きくきくドリル」をご存知でしょうか。 読む練習、書く練習、話す練習は皆さん心掛けられますが、案外、聞く練習に心を配ることは少ないように思います。 この「きくきくドリル」は聞く練習ができる、従来に無い画期的なものなのです。

先生は子ども達が人の話を聞いているようで聞いていないことに気付かれました。東京のある中学校で、「今からテストをします。話している内容を注意深く聞いて答えなさい。メモをとってもかまいません」と言って問題文を放送したのにもかかわらず、正答率は非常に低いものだったのです。なんと8人に1人しか3問全問正解しないのです。32人のクラスなら4人しか正解者が居ないということですね。決して、その問題が複雑なわけではありません。注意深く要点を聞き漏らさなければ答えられる問題なのです。

その後、先生はドイツの大学の授業で、学生達が教授の話をスラスラと書き留めており、そして書き続けているのをテレビでご覧になったのです。日本の学生は先生が黒板に書くことだけを写しており、書き留めるスピードも遅いと感じられました。

「注意深く聞く練習」「集中力を持って聞く練習」「聞いたことの要点を素早く書き留める練習」をするための教材を探されましたが、そういうものは市販されていませんでした。そこで先生は自分で作ることを思い立たれました。 いろいろな聞く問題を工夫され、また音声録音のスピードも試行錯誤されました。正解が一つと思い込んで、しっかり聞けていないこともある現実から、正解を無くしたり、正解が二つあるといった工夫もなさいました。(日本の問題は往々にして正解一つのワンパターンですよね)

そして、この画期的な問題集ができたのです。4才から7才用になっていますが、実際にはその年齢の倍まで使えるのだそうで、14才位まで十分活用できるそうです。 確かに先生が出してくださった問題は、大人の私達でも注意散漫だと不正解になるようなものでした。人の話をしっかり聞けていない私は、自分を大いに反省しました。

先生のお話では、テストをしたところ、得点分布の型は殆どが真ん中が高くなる山型の曲線を描くのですが、
説明を聞きながら記憶と話の整理が同時に出来るかが問われるテストでは「聞けている子ども」と「聞けていない子ども」の二極に分化するのだそうです。 学校の授業でも、ちゃんと聞けていない子どもが居る可能性大ですね。「聞く」という作業は先生もおっしゃるように、一発勝負なのですから。

海外移動した子ども達は、違った言語の中で耳をダンボにして注意深く人の話を聞く練習ができていることでしょう。 ですから、この日本語をしっかり聞くための教材はそういった子ども達に非常に有効なのではないかしら、と感じます。 また日本語をちゃんと聞けているかどうか、不安をお持ちのお母様にとっても役立つものだと思います。

昔はラジオを聞くといったことが一般的でしたが、今はテレビやパソコンなど映像文化の時代になっています。近頃のテレビでは人の話にも、字幕が付くようになっています。そうなると、どうしても耳を澄まして聞く、という姿勢が失われがちになるのではないでしょうか。

ぜひ、幼稚園や小学生を持つお子さんに、この教材で訓練してあげると良いと思います。そのような訓練を日頃の生活の中で何気なくできているお母様もいらっしゃるでしょうが、この教材を使うことによって、聞く姿勢が身に付き、その後の長い人生に大きな影響が出てくることでしょう。社会人になっても、上司や先輩の言ったことを、ちゃんと聞けずに毎回尋ねてばかりではいけませんしね。^^; 小さい頃に親子で楽しんで教材に取り組むことは、認知や思考の発達に良い影響を与えることと思います。

今日のお話を聞いて、ある方は、「これは絶対、呆け防止や脳卒中のリハビリに病院でも使えるわ」とおっしゃっていました。確かにそんな気がします。 

「きくきくドリル」は学習参考書で有名な文英堂から出版されています。そして推薦文は、あの有名な和田秀樹さんと百マス計算の陰山英男先生が書かれています。 それだけ、内容のしっかりしたものであるという証拠ですよね。
アマゾン電子ブック「キンドル」が上陸

アマゾンの売り上げに大変、貢献している電子ブック「キンドル」が日本でも買えるようになりました。英文を読む人にとってはとても嬉しいニュースではないでしょうか。http://www.j-cast.com/2009/10/27052506.html

白黒画面ではありますけれど、ダウンロードは60秒、通信料金は発生しません。そしてハードカバーの場合、通常の25ドルが半額と廉価な販売価格となっています。 新聞も紙媒体より安く購読できます。2GBのメモリーの1500冊分の書籍が保存可能なんだそうです。価格は2万5千円。

またPCでも、この「キンドル」向けの書籍を購入できるそうです。http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009102301000160.html (太字ピアーズ)

米インターネット小売り大手アマゾン・コムは22日、電子書籍端末「キンドル」向けに同社サイトで販売している電子書籍をパソコン向けにも売り始めると発表した。

 11月にも配布する無料ソフトウエア「キンドル・フォー・PC」を取り込めば、キンドルを持っていない利用者でもパソコンで電子書籍を購読できるようになる。電子書籍販売の後押しが期待できる一方、キンドル本体の販売に水を差す可能性も指摘されている。

 購入した電子書籍はキンドルとパソコンで共有できる。キンドルは白黒の画面だが、パソコン上ではカラーでイラストなどを楽しめる。

 新刊書の大部分はこれまでと同様9・99ドル(約900円)で販売。新聞や雑誌の購読は当面できない。米マイクロソフトの基本ソフト(OS)ウィンドウズ向けで、米国以外の利用者は読める書籍が限定されるという。

「中学受験の失敗学」 ー志望校全滅には理由(わけ)があるー

うちの近くの本屋さんに、数冊置かれていました。著者は90年代から塾で教えたり家庭教師をしてきた大学院生の女性です。中学受験で受験した学校すべてに落ちてしまうお子さんの親の中には、少なからざる「ツカレ親」(憑かれてしまった結果、疲れてしまう親)が居るといいます。

中学生や高校生であれば「親が勝手に決めんな」と言うこともできますが、情報力が圧倒的に少ない小学生にとっては親の決定が非常に大きな意味を持ちます。(P9)  「ツカレ親」の素質は殆どの親が持っています。子どもの頑張りやもう片方の親の考え方で、そういった親にならないこともありますが、悪い条件が揃えば、簡単にそういった親になってしまうのだそうです。

惨敗ケースは①習いっぱなしで復習時間を取っていない ②過密スケジュールで、知識の整理・定着が妨げられている ③偏差値をはるかに上回る学校で志望校を固めていた という傾向が強いのだとか。

「親子でニュースや新聞を読み話し合ってきました」といったプレジデントファミリーにも登場するようなアドバイスは「そこそこ知的環境が整った家庭」の「そこそこ頭のいい子」にしか通用しない理想論だというのです(p13)404

第一章                                                                    この章では、「ツカレ親」の実態が9例、出てきます。例えば、家庭教師の目からみれば、滑り止め校までチャレンジ校になっているケース。無理なものは無理なのに、志望校の再検討を勧めても、「失礼なことを言われた」と怒りだしてしまう親。「滑り止めでも、六年間も通うのだから変な学校は受けさせられない」という親の言い分です。結局、いやいやながら公立に通わせることになります。

教育や格差に敏感で、どうにかして「勝ち組」に食い込みたいとピリピリしている親。そういった親は教育や格差に関する新書が出れば必ず購入し、専門家の講演会にも熱心に足を運び、いろいろな情報を豊富に仕入れています。口を開けば格差や学歴の話。合格できそうな学校を勧めてみても、受験雑誌をめくりながら、「国立に毎年2,3人しか入っていないし、旧帝大じゃないわね。旧帝大に入っている学校じゃないと意味がないのよ」と言い出します。

「努力次第で必ず目標は勝ち取れる」といった努力信仰の父親。受験間近では、それが無理なこともあります。危機感の無いお父さんは、強気一点張りの学校選定だったそうです。

中学受験マニアのような父親も。パソコンスキルを駆使して作られたグラフは、息子の三大模試での成績の推移、その日の天候と偏差値の関係など、なかなかの力作。さらに各有名高校から東大・京大・早慶上智への進学率を色分けしたものが、大きくプリントアウトされて部屋に貼り出されています。家庭教師に教えて貰っている読解問題正答率が上がっていないとグラフを見せて説明し、家庭教師を替えたりします。

第二章                                                                         「ツカレ親度チェック」                                                          □公立中学に進学させるなど、ありえない                                              □子どもには今のうちに多少の苦労をしてでも、将来楽してほしい                                        □「エリート」という言葉にあこがれる                                                             □自分や配偶者のことをエリートだと思う                                                          □子どもにはそこそこの大学に進学してほしい                                                    □自分や配偶者の学歴にコンプレックスがある                                      □自分や配偶者の学歴に誇りを持っている                                         □自分自身の経験として、勉強ができるようになるコツをつかんだことがない                       □わが子の学力が他の受験生に比べてどれぐらいなのか、イメージがわかない                      □塾や家庭教師なしで中学受験するなどバカな人のすることだと思う                           □高偏差値をキープしている子どもは、何か特別な勉強法をしているのだと思う                   □「学力は生まれつきのものだ」という説には反発を感じる                                       □どんな逆境も努力次第で切り抜けられると思う                                         □目標を中途であきらめるのはダメな人間のすることだと思う                                  □「敗者復活」系の伝記や逸話が好きだ                                           □子どもの教育にはそれなりの出費を覚悟している

16項目中、誰でも2つや3つは当てはまるけれども、半分以上にチェックがついたら要注意だとか。親が高学歴であるとか、生活態度が模範的であっても、子どもの学習計画を立てたり志望校を決めるとなると、途端に正常な判断力を失い暴走するのが「ツカレ親」なのです。

「ツカレ親」は志望校レベルに関係なく、あらゆるレベルに存在します。セレブ系ツカレ親も庶民系ツカレ親も居ます。最近はセレブ系のツカレ父親も多いということです。エリートなために子どもの学力への過信があったり、子どもが落ちぶれることによって自分が築いてきたものが損なわれることへの怖れがあるのかもしれない、と著者は言います。時には母親以上に始末が悪く、ロジカルシンキングで理詰めで判断し、自分の判断力に絶対的な自信を持ち、自分の立てた仮説に根本的な誤りが無いか、疑うことをしないのです。

中学合格が大学合格に直結するように考える学歴至上主義がはびこっており、盲目的に「大学」というキーワードにこだわる親が多いということです。たとえ早慶にたくさん進んでいる学校でも、その学校に入れば早慶に入れるといった根本的勘違いをしている親も居て、幸運が重なってまぐれで入っても、子どもにとっては辛いばかりという実例もあるそうです。

第二章の3は非常に厳しい言葉なのですが、「デキ」のいい子と悪い子の間には、どうにも埋められない深い溝があると著者はいいます。それぞれの子どもの性格や、もともとの能力差というものはあるのは現実として仕方のないこと。大切なのは、こうした能力差と折り合いをつけながら、可能な範囲で最良結果を出せるように努めること。希望通りにならない時、実現可能な範囲で幸福を見つけられる柔軟性を身に付けさせることが子どもへの教育的配慮ではないのだろうか、と読者に問いかけています。

また偏差値はある程度は志望校選定のモノサシとして使えるという話や、塾や家庭教師は時には合格という甘い夢を見せる営業トークをすることもあることを、肝に命じておいたほうが良いともいいます。塾や家庭教師としては、下手なことを言ってツカレ親を怒らせることを恐れる心理もあるようです。

第三章では志望校全滅を避けるための対策が書かれています。志望校は諦めとともに選ぶことも大切ということや、余裕のないスケジュール作りはしないことなど、具体的なことが書かれています。

 

以上、この本を読んで感じるのは、「子どもを見ていない親」そして「人の言うことを聞かずに自分の思いで突っ走る親」が、志望校を全滅させる「ツカレ親」になりがちなのではないか、ということです。親というものは、つい夢を描きがちですが、勝手な夢を描かないようにすることは大切ですよね。

とはいえ、中学受験に失敗しても、高校も大学でもチャンスはあります。そして著者が言うように、凡人であっても幸せになることは十分できるのです。くれぐれも、憑かれて、子どもも自分も周囲も疲れさせる親にならないよう、気を付けていきたいものです。     

「大学・高校のLD・AD/HD・高機能自閉症の支援のためのヒント集」

まだ今年1月に刊行されたばかりの本で、中を読んでいなくて御紹介するのはどうかと思いますが、必要度の高い方もいらっしゃることと思いますので、ご紹介いたします。

高校や大学での生活・学習・事務の窓口等、各場面で必要とされる特別支援の実際が書かれているようです。新しい学校に入学が決まったとして、こういった性質を持つ子どもさんを学校に正しく理解していただき、支援していただくために、どのようなお願いをしていったら良いのかのヒントになるのではないでしょうか。

勉強から逃げ出したい あなたへ (高校生向け、中学生も) 

勉強はいやだな、受験勉強から逃げ出したい、と考えている人達に対して「なぜ学び、なにを学ぶのか」というヒントが書かれています。 私のような保護者にとっても、また教師という職業の人にとっても参考になる本だと思います。                                                特に日本で学習している人にとって役立つ本ですが、海外にいらっしゃる方が読まれても、なんらかのヒントは得られると思います。 もちろん、勉強がそれほど苦痛じゃない人にとっても、新しい発見があることでしょう。

7つの章から成っています。1時限目 国語、2時限目 数学(計算問題)、3時限目 数学(図形問題)、4時限目 英語、5時限目 理科(物理)、6時限目 社会、課外授業 心理となっていて、各界の著名な講師の談話を主体とした書き方になっています。ですので、とても読みやすいものです。

まず国語。日本語教師の話ですので、正確で客観的な叙述が強調されています。 それは基本的には非常に重要だな、と思う反面、私などは正確さオンリーの乾燥文は、時と場合によるよね、なんて感じてしまいました・・・。

2時限目 計算問題。小学生の親にとっても参考になる計算の仕方が載っています。そして、数学は「理解する」と「答案にする」とは全く別次元の話だということも分かりました。 時にはファーストフード店利用の勉強も有効だよ、という話は実用的。 そして、最後は「受験」。 受験で何度も失敗している講師は、「受験とは負けてもいいものだ。意味のある負けだってある。 負けることを恐れて、受験というせっかくの感動体験を放棄するほうがもったいない」「受験は、あなた自身が初めて社会から『承認』される、とてつもなく感動的な瞬間なんだ」と言っています。

3時限目 図形問題。 センスを磨くためには「遊びながらやる」「手を使ってやる」という経験が大切。そのためには「外遊び」をしておくことが重要ということです。 小さい子どもを持つお母さんにとっても有益な話ですよね。 そしてまた、詰める力を伸ばすには、「できなかった問題」を徹底的にやることも重要なのだとか。その意志力が詰める力を伸ばすそうです。 文章題は集中力を持って読むことが大事。 そして最後に入試について。 大学入試は「世の中は厳しい」という現実に直面する大チャンス。受験は若者を「一人前の大人」にしてくれるチャンスなのだそうです。

4時限目 英語。 これは私達、大人にとっても役立つ内容。特に英語が喋れない人にとっては役立ちます。英語を母語とする人の感覚に基づくことが大切なのだということが学べます。単なる文法じゃないんですね。 最後に「自分探し」について。自分を知るためには、自分自身の違和感を大切にしようと語られています。これ、何か変だぞ、という思いから、自分自身の方向性が見えてくるということのようです。

5時限目 理科。日常生活は「仮説と検証」で成り立っていると認識することで、新たな世界が広がるようです。「語りうるもの」と「語り得ぬもの」の限界に挑戦しているのが研究者だということです。そして物理学の中にある「間主観性」という考え方を生かすと、自分と相手の立場の間にたって物事を考えることができ、それが社会生活の「思いやり」に通じるとのこと。 そして、最後に「僕は頭が悪い」というのも、単なる仮説に過ぎないんだ、と講師は語っています。

6時限目 社会。「情報処理力」より大切なのは「情報編集力」だと説いています。そして、ひとりで物事を解決しようとするな、ナナメの関係を豊かにしようと提言しています。 そしてバランス感覚を身につけるためには、小さい頃の体を使った体験が不可欠なのだということです。 さて、勉強についてですが、勉強は「クレジット」を  高めるためにはとても大切。「クレジット」とは他人から貰える信頼や共感。信任の総量を指します。クレジットが高まると、自分のやりたいことがどんどんできていく。今、夢が持てなくても、クレジットを高めておくと、いずれ夢がどんどん実現していくんだよ、と語りかけています。

最後の授業は心理。コールドリーディングという怪しげな書き出しですが、要は自分を外面からでも信じ込む技術のようです。 「大丈夫だ」と信じ込もうとするほど不安になる。「大丈夫だ」と言っている時点で不安だから言っているのであって、本当に大丈夫な人はそんなことを自分に言い聞かせはしない。「合格するに決まっている」という潜在意識を作りだすことが大切なのだとか。 嫉妬についても書かれていて、嫉妬心は人間として必要だけれど、バランスを取ることが大切。自信が無いから嫉妬するのであって、自分はまだまだ自信が無いんだな、と分かって、それを向上に向けることに意味があるようです。 最後に「早く受験から抜け出したい」という意識ではなく、「いま現在の自分が一歩ずつ成長している」と感じることが大事だと語られています。  否定形ではなく、肯定形で考えること。   苦手意識に捉われず、得意科目を徹底的に伸ばすことによって、勉強のカンは高まるそうです。

読んでみられて、一つでも皆さんのヒントになることがあればいいなぁ、と思っています。受験生の皆さん、最後の一頑張り。応援しています!

「アメリカ駐在 これで安心 子どもの教育ナビ」 高橋純子 著   (一部追加)
★部分を追加いたしました。(2008/10/30)

本屋さんで見かけて、買ってみました。(ピアーズのお金で買いました。茶話会などの御参加で、中を見ていただくことができるようにしますね)

これから渡航なさる方、海外にお住まいの方にとっては参考になるところも、かなりあると思います。著者の考え方はとてもバランスが取れていて、答えも適切だと感じます。 ただ、内容量からすると、2100円はちょっと高いかな。でも需要量から考えると仕方ないですよね。68のQ&Aで成り立っています。

特にこれから渡航なさる方にとっては、外国で教育を受けることに対して甘い考えでは大変だということを認識していただくためには良いと思います。                                      (逆に言えば、しっかりした考えをもって、適切に子どもをバックアップしてやれば  実りは大きいということです

現地校になじめるかどうかは、お子さん本人の性格や能力による、と書かれています。                                                           ①明るく社交的、積極的(友達をつくりたい、遊びたいという欲求が高い)                                                 ②国語や作文が得意(もともと言語力が高い)                                       ③音楽が得意(耳がよい、言語のリズムやイントネーションを学ぶのが早い)                      ④スポーツが得意(最初から言語に関係なく活動に参加できる)                               ⑤相対的に勉強がよくでき、物事を理解するのが早い                                      ⑥いやいやでなく、希望を持って渡米する                                         ⑦親が英語ができる                                                         ⑧親が社交的で現地に溶けこもうと努力する                                           ⑨女の子(言語を使っての社交性が男子より高い)                                      となっています。必ずしも、上記条件にあてはまっていなくても大丈夫なこともありますし、あてはまっていても状況によっては難しいこともあるでしょう。 ですが、著者の沢山の経験に基づいた意見ですから、大きく間違ってはいないのだろうと思います。いずれにしろ、著者も書いていますが、よその子と比較したりしない、ということは大切だと思います。

★177頁に『日本人家庭の場合、子どもの進学は母親の責任というような社会通念があり、例えば有名校に子どもが合格した場合、まるで母親の「お手柄」のように捉えられる傾向があります。』という警告が書かれています。確かに親がいつも子どもを支えることは必要ですが、有名校に入れることが「お手柄」なのではないですよね。子どもがその子なりの力を出せるよう、将来は自立してその子らしく生きていけるよう、より良い方法を考えるのが親のやるべき事柄かな、と思っています。(子どものことを常に心にかけつつも、お母さん自身の生き方も大切にしてくださいね)

帰国後の教育については、私としては2点ほど申し上げたいことがありました。 一つはインターナショナルスクールという選択肢です。将来、再び海外へ行くことを考慮に入れられる家庭にとっては、それもいいかもしれませんが、授業料の高額さとか日本の学校に進学する難しさという点から考えると、あまり安易にはお勧めできないかな、という気がします。

もう一つは日本の受け入れ校についてです。「受け入れ態勢が整ってきている」という説明ですが、受け入れ校と銘打っていても、内容は様々であり、帰国生徒が学年に一人居るか居ないか、3学年で一人ということもあります。よく学校のことを知って適切な学校を選んで貰いたいなと思います。また公立の場合、首都圏と比べて関西は受け入れ態勢が十分ある、とは言えないように感じます。ましてや、もっと地方ならば、より大変かもしれません。 とはいえ、学校によっては校長や担任がとても配慮してくださることもありますので、悲観的になってばかりいる必要はありません。 学校と良い関係を結べたらいいですね。       

一つだけ誤字が何度も繰り返されているのが気になりました・・・・。(私も、たまにやってるかもしれませんが)

「教育格差 絶望社会」  福地 誠 著

    2006年7月刊

お仲間の一人が、これが現実なのかもしれない、と言ってこの本をお貸しくださいました。

読み始めて、「ああ、これは、現実は学歴の有無によって、格差が生まれているということ、そして高い学歴を得るためにはお金の有無や家庭環境が大きな影響を及ぼしていることを書いた本なのだな」と思い、教育に関心のある親の不安を煽る本かもしれない、という気がして、急いで「あとがき」を読みました。

するとそこには、著者の二人のお子さんのことが書かれていました。一人は中学受験で希望校へ入ってクラブ活動も熱心にこなすお子さん、もう一人は心の中にたくさんのお友達が居て、その子達と楽しく会話をしているが、小6で割り算掛け算は心もとない特殊学級に通うお子さん。でも、その特殊学級へ通うお子さんはいつも幸せそうにしており、いろいろな人に愛されている。「経済力だけで学力が決まる世の中はおかしいと訴えたいけれど、でも学力だけで個人の幸・不幸が決まるわけでもない」という著者の言葉を読んで、改めて初めからちゃんと読んでみようという意欲が湧きました。

ですが、内容は結局のところ、東大を頂点にしたヒエラルキーの存在が厳然とした事実であり、そういったヒエラルキーの少しでも上に位置することが、会社に入る前のスタート地点の有利性をもたらすという現実が述べられ、そして高い学歴を得るためには、親の経済力や情報収集力を含む様々な文化資本を欠くことはできない、という事実を説明したものでした・・・。

解決策については何も述べられていませんが、日本の教育状況の変化を知るにはとても良い本ではないかと思います。2006年7月刊行ですが、今、特に大きく変わりつつある公教育の現状が活写されていると思います。

お金があまりにも無いと、本当に気の毒なことになるというのは悲しくなります。教育において「公」より「私」に頼り過ぎた政府の方針に非常に問題を感じます。ですが、お金があったらなんでも可能ということも無いと思います。

うちはお金持ちでは全くありません。特別貧乏でもないと思いますけれど。 私の方針は、なるべくお金をかけないで、でも、そこそこ納得できるレベルで、という気持ちでした。 そのために学習習慣を身につけさせることや、いろいろな体験をさせることなど、私なりには心を配りました。 塾はあまり利用しませんでしたが、通信教育は利用しました。 学校で学んだことは、十分身につけようとする態度の涵養には気を付けました。 ですが、あまり無理をさせないように、という基本方針は持っていました。                                                                                        特別すごい学歴ではないかもしれませんが、私としては、「まぁ、こんなもんかな」と思っていますし、あとは本人の気力次第かなと思います。

本当に大切なことは「気力」とか「工夫する力」とかを育てておけばよいのかもしれません。どんな状況になっても活路を見いだせる力、工夫する知力があって、あとは人に信頼され、愛される人ならば、やっていけるんじゃないでしょうかねえ。

いや、もちろん、バリバリに進学を目指して、バリバリ進学校へ行くのもいいですよー。それだって、工夫力とか集中力は要りますし、その証明でもあるのですから。 子どもの能力と家庭の考え方ですし、ロマンチックな教育法よりは、現実的で確実な生き方なのでしょう。 

もし、将来、バリバリ学歴をつけたいといった夢を持っていらっしゃるなら、それが現実になるように少し心掛けておかれたほうが良いでしょうね。 ロマンチックなことを言っておいて、受験が頭をよぎってから急に思い付いて路線変更して突然アンビバレントなメッセージを送っても、それに付いて行ける子どもさんばかりではないでしょうから。

P.S. うちのことを知っている方から、結構、教育にお金をかけたじゃないですか、というツッコミをいただきそうです。確かに子どもそれぞれ、一時的にお金をかけた時期はありました。 ですが、基本は「安くていいもの狙い」(スーパーでの買い物?)なので、ここ一番、どうしても必要という時だけは、奮発しました。

食べることって大切ですよね -食育ー

赤ちゃんを考えてみると、基本的には食べて、寝てます。511  やがて成人すると、健康に大切なのは「運動」と「食事」と言われます。 ずーっと大切なのは、    「食べること」なんですよネ。

お仲間からぜひ、皆さんに伝えて欲しいと2冊の本が送られて来ました。1冊は上記の「体においしい『ごはんの力』」 -できることから始めるプチ健康的食生活ー という本で、、もう1冊は全国農業会議所というところが発行している「みんなで食育」という本でした。

「みんなで食育」という本には、いのちを育むのは食事だと説かれています。食べものが子どもの感性を磨くとも。子どもを惹きつけるアプローチをとって、食育をしていこうと提唱されています。 子どもが喜ぶキャラクターを通して、ときにはぬり絵を使って、そして歌を通して、カルタ、ミュージカルとあらゆる方法を使って子どもが食事について学べるようにしよう、と書かれています。

もちろん冒頭の本も、食事の大切さについて書かれています。適切な量を食べること、野菜を食べること、噛む回数を増やすこと、食事記録をつけて食習慣を見直すこと、朝ごはん・昼ごはんをしっかり食べること、・・・。いろいろ、大事にしたいことがありますよねー。

海外に住んでいると、素材も限られますし、和食作りも難しいことでしょう。 ですが、限られた中で子どもの健康を作る工夫を、できるだけしてみてくださいね。 無理をされることはありません。 ちょっとした心掛けでできることから、やってみてください。 健康は何より有り難いものですものね。91

「アメリカで育つ日本の子どもたち」  -続きー

 2008年3月31日刊

昨日に引き続き、第6章から最後までを、見ていきたいと思います。

第6章

この章は1600名の子どもへの調査を基に書かれています。アメリカの補習授業校で学ぶ子ども達の英語力と日本語力を調べたものです。

第3章で述べられているように、プロフィシェント・バイリンガルになるのは難しいですが、少なくともパーシャル・バイリンガル(一方の言語は学齢に相当している)であることは非常に大切です。

(1)日本語と英語の力                                                                     学年が上がるにつれて、日本語力が学齢よりも下がります。学齢が低い間は、日本語力のばらつきのグラフは山型ですが、学年が上がると高い日本語力から低い日本語力を持つ子どもまで、平たくばらつきます。小学校5年位からばらつきが目立ってきます。                                                              英語力に関しては、小学4年以降からは渡航間もない子どもと長期滞在の子どもで差が出ます。中学以降になると学齢よりずっと高い英語力を持つ子どもも増えますが、英語の方が日本語より強くなってきている子ども達だと思われます。

(2)学年が上がるにつれて、英語優位のパーシャル・バイリンガルが増えます。しかし両言語ともに学年より低い生徒が7%ほど存在します。

(3)漢字ができれば日本語ができると考える補習校の先生や親がいますが、長期滞在者や永住の子ども達の場合は、漢字を必要以上に重視するより、きちんとした文が作れることが大切です。                                          日本語の文法力に関しては、小学校高学年から「できる子」と「できない子」に二極化していきます。複雑な文型や助詞は、日常会話だけではなく学習によって身に付きます。

(4)滞在期間と英語力                                                     渡航年齢や環境にもよりますが、子ども達は1年を過ぎた頃から英語を理解し始め、2年で日本語力と英語力が同じ位になって交差します。その後は英語力は伸びますが日本語力はそれほど伸びず、渡航から4年程すると英語の方が強くなります。 また小学校4年位から日本語もぐっと難しくなるので、基礎はその前につけておかなければなりません。

(5)渡航年齢と英語力                                                5,6歳以前で渡航した子ども達は3年も経つと英語の方が強くなります。7,8歳で渡航した場合も同様ですが、5,6歳渡航の子ども達より、日本語力・英語力の差は小さいです。9歳から11歳で渡航した場合は、4年位で日英が同じレベルになります。英語も身に付きますが、日本語も残っています。12歳以降に渡航した場合は、英語の方が強くなるには、かなり時間を要します。

次に上記をふまえて、どう学習していくかについて書かれています。                           (1)小学校4年、5年頃から差が出ますが、これは小さい頃からの積み重ねです。読み聞かせをすること、夏休みに日本で体験入学をさせること、親も一緒に読書の時間を作ること、日常会話だけではなく、あるトピックについて議論をすることも大切です。

(2)パーシャル・バイリンガルは心配いりません。どちらかの力がしっかりついていれば、社会性を養ったり、認知力を高めたり、知識をつけたりすることはできます。(ただし、日本語力が3学年も遅れると、日本に帰国しても学年に追いつくのは大変難しいと第3章に書かれています。ですが努力によって、実生活に問題無い程度のバイリンガルになる可能性はあるそうです)                                   日本語力のレベルに関しては親がチェックする必要がありますが、その際に、漢字力に頼ってはいけません。漢字は必ずしも、日本語力のバロメータにはなりません。

(3)補習授業校は現実に合わせて変化していかねばなりません。日本の文部科学省から派遣される先生方の認識を変える必要もあります。国際クラスの設置を検討せねばなりません。また、親も国際クラスはレベルが低いと嫌がるケースがありますが、親が見栄を張るのは良くありません。

第7章

国際結婚で生まれた子ども達や永住の子ども達のバイリンガル教育の研究です。継承語として日本語を学び続けさせるのは至難の技です。どういうところでつまずき、どういうサポートをしていけば良いのでしょうか。

日本語をやってもどうせできない、と早々に諦めてはいけません。ごく小さい頃から学ばせることは非常に大切です。ですが、大きくなるにつれ、学ばせ続けることは、大変な精神的負担にもなってきます。しかし、英語を十分理解しない親の場合、大きくなるにつれ、子どもが日本語で悩み事を親に相談できないという事態も生じてきます。

会話力はすべての基礎です。 5,6歳から7,8歳の時期、英語ができる母親が、日本語を十分話していないと、バイリンガルの可能性は激減します。                                                             6,7歳~8,9歳では授業についていこうとする努力が、語彙にも対話にも表れます。努力が少ないと、認知面が伸びません。                                                    学年が上がっても、授業についていき、13歳まで努力すれば、ある程度、会話力は維持できます。15歳まで学習を続ければ、たとえ以後、学習をやめても、自力で日本語力を伸ばしていくことができるようになります。

現地の生活で必要のない日本語を学ばせ続ける難しさに、親は非常に悩みます。「9歳の壁」がありますが、その山を乗り越えることが大切です。乗り越えた親は様々な工夫をしていました。一人親、一言語の原則は大切です。また日本語読書をさせることも重要です。 会話力ではない学習言語は、学習しない限り伸びません。親が言語に対する、しっかりした姿勢を持たなければなりません。年齢相応の教材を使い、楽しく学ばせるよう努めましょう。

第8章

長期滞在や永住の子ども達のアイデンティティの問題について述べられています。彼らは自分達を日本人でもなく、アメリカ人でもないと認識しています。インパーフェクト(中途半端)な日本人という意識も持っていて、日本に住んでみたい、同じエスニックグループの人と交流したいという気持ちも持っています。

ホームレスネスという意識も持ちますが、決してネガティブな根無し草という意味ではありません。居心地の良い自分の居場所を見つける努力をしているのです。高校生くらいになると、将来を考え、アメリカ人との将来選択の差などから、自分をより日本人と感じるケースが多くなります。

アイデンティティ形成の要因には様々なものがあります。補習授業校も大きな役割を果たします。日本人としてのアイデンティティは日本語力にも強く関係し、またエスニックグループ・メンバーシップにも関連が深いのです。

また家庭環境ももちろん、アイデンティティに深く関係します。日本的なものを大切にする家庭では、日本人としてのアイデンティティが育ちます。ですが、大学生になって遠くの寮に住むようになると、日本語より英語が強くなります。

日系コミュニティもアイデンティティに関わりが深いのです。日本のテレビや雑誌があるところなど、日系コミュニティに参加しやすいところでは、日本人アイデンティティが強くなります。

いずれにしろ、「日本人」「アメリカ人」といった枠にとらわれないアイデンティティを育ててほしいと、この研究者はおっしゃっています。子ども達はいろいろ試行錯誤していくことになるのでしょう。

第9章

高校生になって渡米した子ども達が、高校内でどういった位置取りをしているかの研究です。高校生になって渡米し、同じ高校に、ある程度の数の日本人が在学している場合、どうしても日本人同士の接触が多くなります。高校では、大きく分けて、日本人同士固まるJapsもしくはFOBs(Fresh-Off-the Boat 下船しばかりの新参者)と呼ばれるグループと、英語を話したいWannnabeと呼ばれるグループに分かれます。そして、それぞれに男子グループ、女子グループがあり、おおむね4つのグループになるようで、ランチを食べる場所も異なります。細かくは「塾へ通っている/通っていない」でもグループが分かれます。

日本から来て、まだ日が浅い高校生は車を運転することも少なく、親の車で移動します。学校、家、塾といった非常に限られた範囲で生活することになります。また、学校でも当初はELDクラスに所属する時間数が多く、そこでもどうしても日本人同士が接触することになります。

アメリカの大学に進むには困難が多く、日本の有名大学に進学できる可能性が高いので、日本の塾に通う生徒も多く、塾は彼らにとって「日本人」を意識させる場所ともなっており、また日本語で堂々と話せる場所ともなっています。

彼らは学校や塾といった現実空間だけではなく、インターネットのチャットやmixiなどのSNSを使って交流をしています。その際に自己の表象の仕方に、個々人がどれだけ日本的であろうとしているか、アメリカ的であろうとしているかが表れます。スクリーンネーム、スクリーンネームに添える一言、フォントの字体などから、それらが読み取れます。彼らはネットの中でも、自らの日本人度を互いに表象しあっています。

これらを読むと、非常に息苦しさを感じるのは私ばかりではないでしょう。狭い人間関係と、絶えず「日本人」としての自分と他の人達を意識しなければならないのです。

第10章

最終章です。佐藤郡衛氏が今までの研究を総括しています。日本語が優位な子どもへの支援、英語が優位な子どもへの支援、日本語を継承語にする子どもへの支援の方法についてまとめておられます。そしてこれからの補習授業校の役割についても書かれています。その上で、第三の文化を持つ子ども達の育成を支援していかねばならないと説いています。

彼らは、多くの人知れぬ苦労を味わっているのですよね。周囲は子どもの可能性を信じ、暖かく見守り、育てたいものです。

「アメリカで育つ日本の子どもたち」 

  2008年3月31日刊

アメリカに渡航する予定の方、またアメリカに住む方にとって、とりわけ参考になる本だと思います。異文化間教育の分野で有名な佐藤郡衛氏と、9人のアメリカ在住の女性研究者が執筆しています。主に「言葉」の問題と「アイデンティティ」の問題について、非常に分かりやすい言葉で、保護者に向けて書かれています。子どもの状況をよく知り、どういった支援をしていったらよいのかについて、考えるヒントとなるようにと意図され作られた本です。

第1章 

海外在住の日本人が多様化しています。在米日本人は大きく分けると「短期滞在日本人」「新一世(長期滞在日本人)」「帰米二世・新二世」「渡米した在日コリアン」「日系アメリカ人二世~五世」の5つのタイプに分けられます。

渡米したばかりの子どもはLEP(Limited English Proficiency)Studentということになり、ELD(Enlish Language Development)と呼ばれるクラスに入ることが多いのですが、そこでは英語力だけではなく、アメリカでの学習スタイルや学校文化、アメリカ公民としての資質も学びます。まさしく「文化間移動」をすることになります。

また今や補習授業校(補習校)に通うのは「短期滞在の子ども」「長期滞在の子ども」「永住の子ども」「国際結婚家庭の子ども」と多様化しており、従来の短期滞在の子どもばかりを対象とした学校では、実情に合わなくなってきているケースも多いのです。

第2章

移民に対するアメリカの教育政策の変遷について書かれています。1890年頃までは黙認期、1960年頃まではアメリカ化への圧力の時代、1980年頃までは公民権運動とバイリンガル教育認可の時代、1980年以降はEnglish Onlyの時代、というふうに4つに区分されています。

イングリッシュ・オンリーの動きは、移民の子ども達の英語教育に大きな影響を与えています。幼稚園から英語教育を受けた場合、ある研究ではネイティブの8割の会話力に達するのに3年弱、読み書きに関しては5,6年かかると出たそうです。渡航年齢によってはもっとかかることも考えられます。それが、この政策によって英語教育に費やされる時間が短くなり、教育現場は困っています。

また「落ちこぼれを無くす政策」(NCLB)によっても、英語学習者は多大な影響を受けています。3年生から8年生まで毎年、英語と数学(算数)のテストがあり、10年生から12年生までに最低1回は英語読解と数学のテストが行われ、この結果を各学校は公表することになりました。ELL(English Language Learner)の生徒達も同様の試験を受けなけらばならず、この試験の実施に対しては、各学校区で特別措置の方法がまちまちです。(翻訳をつけたり等)

いずれにしろ、現在は渡米した子どもにとって、以前よりは大変になってきています。

第3章

バイリンガルには2言語が同等にハイレベルで使える「プロフィシェント・バイリンガル」、どちらかが強い「パーシャル・バイリンガル」、どちらも不自由な「リミテッド・バイリンガル」(セミリンガル)に分けられますが、気をつけねばならないのは「リミテッド」のケースです。英語については州のテスト結果を、日本語力については、親が十分注意して観察しておかなければなりません。

日本語を学ぶ場として、日本人学校、補習授業校、日本語学校(継承語学校)、高校日本語クラス、塾、家庭教師などがあります。それぞれの特徴をよく理解しておかなければなりません。

英語習得については渡航時期や期間、環境によって異なります。また家庭言語環境も大切な要素です。

第4章

この章では、言語習得について分かりやすく言語学的に書いてあります。

ある日、突然、言葉の分からない国へ行ったら、どれほどのストレスを受けるかについて、その例が述べられています。

話し言葉はまず沈黙期という時期があって、その時期は言語情報を吸収している時期です。やがて丸暗記した言葉を喋り始め、次に文法規則を自分なりに予測して話すようになります。語彙が不足している時は、違う言語が混ざったりします。語彙不足はその地に住まない限り、どうしても起こりうるので、ある程度は仕方がありません。(幼稚園から英語を学んでも、9歳頃までは起こります)

小学校入学頃までに第一言語の基礎が固まり、以後は英語に引き寄せられることが多くなるので、十分基礎固めに注意する必要があります。

小学校1年から3年までに、字と音を合わせ、語のまとまりを認識する力など、様々な「読むことを学ぶ」基礎を作る時期です。それらをしっかり身につけないと、小学校4年以上の「学ぶために読む」ということに繋がりません。読み聞かせが有効な方法であり、子ども達が黙読できるようになっても、時には音読させることが重要です。

第5章

ロサンゼルスとワシントンDCで行ったアンケート結果に基づいて書かれています。

①アメリカの学校は思ったより宿題やテストが多い。規則を破った時の罰則が日本より厳しい。しかし思ったより子どもが早く慣れた。思った以上に少人数で目が行き届く。                                                                ②英語が分かるようになったのは、半年から1年位。保護者からの回答は、これより少し遅めの1年を過ぎたあたり、となっています。親は「言いたいことが言えないのではないか」と心配しますが、子どもは「聞き取れないのではないか」といった聴解を心配しています。                                         ③補習授業校は楽しいという回答が多くなっています。子ども達は親が思う以上に授業や勉強を楽しいと感じているようです。                                                    ④日本語が難しいと感じる時期は、渡米後1年位してからで、英語力がついてきた時期と重なります。渡航時期による差が大きく、10歳で渡米した兄は強いていえば日本語が得意と言うが、7歳で渡米した妹は英語の方が得意と答えたりします。                                         ⑤日本語の保持に対して保護者は、十分注意しているようで、本を読ませたり、社会問題について話し合ったり、さまざまな家庭学習を試みています。                                     ⑥滞米中の問題点と解決策には、さまざまなアイデアがあります。親が学校のボランティアをすること、失敗から学ぶこと、日本人同士で固まらない、日本人とのネットワークを作る、アメリカのシステムについて子どもの前で愚痴を言ったりしない、頑張り過ぎず息抜きをする、他人と比較せず長い目で考える、など。                                                              また、これから渡米する人に対しても様々な有益なメッセージがあります(P.112)

いずれにしろ、保護者がリラックスし、滞米を前向きに考え、子どもの持つ力を信じ、励ますことが大切だと、親達は認識していると書かれています。

第6章~第10章は次回に。

「高学歴ワーキングプア」 水月昭道 著

副題は「フリーター生産工場」としての大学院、となっています。大学院博士課程を修了した後、大学で教えるという仕事に就くことが現在では非常に難しくなっていることについて書かれています。人文系では特にそれが顕著だということです。

かつては大学院に進む学生は研究者志望のごく少数でした。ところが1991年に文部省が打ち出した「大学設置基準等の改正」により大学院生増産計画が実行に移されることになったのです。各大学は予算欲しさや大学の格を上げるために、競って大学院を作りました。大学院を維持するためには学生が必要です。教授の誘いに乗って博士課程に進んだものの、卒業後、企業にも就職できず、さりとて大学が生き延びれるかどうか、という時代に大学での職を見つけるのも難しくなってしまいました。こうして高学歴ワーキングプアと言われる人達がたくさん生み出されたのです。

もちろん学問の世界にもスーパーエリートは居ますが、能力はあってもポストが無い故にコンビニで働く博士も少なくないのだとか。学問の世界では、どこかの大学に属していないと学会での発表もできず、いろいろな資料へのアクセスも難しくなるのです(これはおかしいですね。どこにも属すことなく在野での発表の可能性や、大学図書館の開放などが必要でしょう)。そのために博士号を取得しても就職浪人という形で学費を払ってでも大学に残る人もいるのです。

査読というレフリー制度にも現在では矛盾が出てきています。昔は博士課程単位取得後、博士論文を提出することなく教員になる人も少なくありませんでした。ところが今は博士課程終了時に博士論文を提出し、それが認められることも普通になってきました。そういった人は論文を書く事にも習熟しておりレフリーペーパー(査読のある学会誌への投稿論文)を何本も持っていたりします。しかしながら査読をする側が博士号を持っておらず、時によってはレフリーペーパーも持っていないこともあるというのです。

本当に大変なのだなぁ、ということがよく分かります。ところが終りに近い第六章で一つの光明が見えてきました。それは「大学教員職にこだわらない」という生き方です。大学院で身につけるのは、「知識という武器を身にまとい、それを上手に使って、世の中の諸現象の背景にある本質を見抜き、その解決策を考えること」(西山夘三)であれば、それを別の分野にも生かすことはできるはずです。34歳のある男性はIT関連会社の経営者となりました。「学問を身につける段階において獲得したさまざまな技能やフレームワークは、多くの分野に転用できるものです」と彼は述べています。そして「立場に囚われることから離れる」という言葉を口にしています。捨てるのではなく、こだわらなくなった時に新しい生き方が見つかるようです。自分が設定した期間、やるべきときは脇目もふらずにやる、けれど何事にも区切りをつけてやる、ということだそうです。

また「社会貢献がしたい」という漠然とした思いがあるとするならば、その漠とした目的を持つ領域(Zone of Finality)に向かって進んで行くことが、人生の歩む際の指標になり得るのではないか、という示唆を著者はしています。(立命館大の学生卒論「中国人留学生の目的意識とその変容に関する質的研究」)

そして、アメリカでは大学院生の多くが時間とお金に余裕ができた時に学問をするために入ってくるのだとか。彼らは決して大学の教員を目指すために博士号を取るわけではありません。自らを豊かにするためにチャレンジするのです。そういった人々が社会のなかに”いる”ことの意味は大きいと著者は言っています。生涯教育として、大学院の果たす役割は大きいものがあるようです。私個人は、大学院では学問や知に対する誠実さが涵養され、また自分個人の利益のためではなく人々のために研究する姿勢が大切であることをより感じる場所でもあるような気がしています。                

大学院は大学の経営のために運営されるべきものではありません。お金のための経営になってしまって、「精神的基盤」というものが抜け落ちると簡単におかしな方向に進んでいってしまうのだと著者は言います。学生を利用するのではなく、個々の学生に「慈」の気持ちを持つことが大切です。                                                   おそらくそれは学校だけに留まらないと私は思います。組織というものが存続していくためには不可欠なものなのではないでしょうか。助け合える組織、そして「利他」の精神を持つ組織であることこそ大切なのだろうと思っています。

「黒山もこもこ、抜けたら荒野」 水無田 気流 著

副題は「デフレ世代の憂鬱と希望」となっています。著者は1970年生まれの詩人で社会学者。高度成長期に生まれ育った著者の個人史でありながら、時代の空気を如実に伝えてくれています。

元不思議少女と言われた著者は知性に溢れていながら、とっても面白いのです。正直で、ちょっとばかり自虐的で、私好みのタイプ(?)です。                                                                                                              高度成長期に生まれ育ち、いざ社会に出るという時に、バブルが崩壊してしまいました。どうにか就職先を見つけるのですが、男女雇用機会均等法があったものの、というかむしろそれ故に職場は男女のコース別就業が慣行化していました。しばらく淡々と働いた頃、急な母の死に出会い、人生のあっけなさを感じ、大学院へと進学することにします。

90年代に著者が大学院へ入った当時は博士課程進学はそれほど称揚されていなかったのですが、2000年を過ぎると大学は博士取得者を教員採用の条件とすることが多くなりました。いくら沢山、論文を書いていようと、資格が要件となるといった状況の変化で、またもや大変な生活が始まります。

さまざまな社会情勢を縦横に批評しながら、筆が進んでいきます。面白く読み進んで、読了しました。一度、著者の詩も読んでみたいと思いました。

「発達障害の子どもたち」 杉山登志郎 著

 2007年12月刊

学校の先生方、また発達障害を疑われる子どもさんを持つ親、また支援を志す方には必読の書だと思います。人工授精など生殖医療は進んでおり、また発達障害の認定分野も広がり、学校現場には発達障害と考えられるべき児童・生徒数も増えている状況にあります。正しい認識と特別支援教育の充実が望まれるところです。

著者は以下のような見解が巷で広がっていることを慮り本書を書こうと決断されたようです。                                                                ・発達障害は一生治らないし、治療方法は無い                                                           ・発達障害児も普通の教育を受けるほうが幸福であり、また発達にも良い影響がある                                                                    ・通常学級の中で周りの子どもたちから助けられながら生活をすることは、本人にも良い影響がある                                               ・通常学級から特殊学級(特別支援室)に変わることができるが、その逆はできない                              ・養護学校(特別支援学校)に一度入れば、通常学校には戻れない                                             ・発達障害児が不登校になったときは一般の不登校と同じに扱い登校刺激はしないほうがよい                                            ・養護学校卒業というキャリアは就労に際しては著しく不利に働く                                       ・通常の高校や大学に進学ができれば成人後の社会生活はより良好になる                       

・発達障害は病気だから医療機関に行かないと治療はできない                           ・病院に行き、言語療法、作業方法などを受けることは発達を非常に促進する                     ・なるべく早く集団に入れて普通の子どもに接するほうがよく発達する                      ・偏食で死ぬ人はいないから偏食は特に矯正をしなくて良い                                ・幼児期から子どもの自主性を重んじることが子どもの発達をより促進する

これらはすべて誤った見解、もしくは条件付きでのみ正しい見解だそうです。それについては本書をよく読まれると理解できるのですが、答えは20ページ~24ページ、191ページ~201ページに書かれています。

今、発達障害と捉えるべき状態については48ページから49ページにまたがる分類が非常に分かりやすいと思います。詳しいことは本書を読まないとよく理解できないと思いますが、境界知能や知的障害を伴わない高機能広範性発達障害など、見落とされて適切な対応を行われなかった場合、とても気の毒なことになるケースもあるようです。(分類表は分断するために使われるべきではありませんけれど)

いずれにしろ、181ページの表に書かれていますように、1.健康な生活 2.養育者との信頼と愛着の形成 3.遊びを通しての自己表現活動 4.基本的な身辺自立 5.コミュニケーション能力の確立 6.集団行動における基本的なルール といった一般の子どもにも大切なことを注意深くやっていかなくてはいけないようです。 

私は普通のお母様も読まれたらいいかと思っています。なぜなら振り返ってみると公立小学校でいつも先生に叱られていたらしい子どもさんがいらっしゃり、また公立中学校で成績不振で不登校気味のお母様が学級懇談会(参加者少数でした)で悩んでいらっしゃる様子をお聞きしたことがあるからです。どうしてあの時、こういった知識がなかったのかしらと残念でなりません。どちらも、うちの子どもからすれば異性の子どもさんであり、また海外から帰国して間がなかったということもありますが、少しでもそのお母様を支えてあげられたら良かったのにと思いました。かなり後に、その不登校気味だった子どもさんの弟さんが自殺されたと伺い、本当に残念でなりません。

もちろん、ラべリングという危険性も十分考えておかなければなりません。一人一人の子どもに向き合うことが、教育現場を含めて、特別支援教育ではとりわけ大切だと思いました。                                                 

「ほんとはこわい『やさしさ社会』」 森真一 著

 2008年1月10日発行

読みやすい本です。現代の社会について、いろいろ考えさせられる内容ですが、私は本書の主な意図と少しだけピントのずれたところで、面白いなと感じました。きっと、著者は皇學館大学の教授をしていらして常に若者と接する立場である点から、「やさしさ社会」を身近に感じていらっしゃって書かれたのでしょうが、私は、ある程度年齢のいった一人の女性&母親という立場から、本を読んで興味深く感じたことを少し書かせていただきますね。

それは玉岡かおるの小説「をんな紋」について書かれた部分でした。この小説を私は読んだことが無いのですが、それは「家を守り続けて、繋いでいく」という生き方についての説明に使われています。連綿と続いてきた家や土地を守るために学問をし、かつ実家を有利にするために商家に嫁いでいく跡取り娘として育てられた女性の話です。                                            しばらく前まで日本ではごく普通に見られた生き方でした。私自身もどちらかというと、そんな感じで育てられた面もあります。けれど、いろいろなゴタゴタや土地や家に縛られるしんどさ、家父長からの押し付けを非常にイヤだと感じ、自由が好きで、かつ抑えつけてくるものへの反発心をかなり持つようになった気がします。

戦争中はお国のために、戦後は会社のためにと日本人は自分を多少犠牲にしても組織に尽くしてきました。しかし裏切られることの多かった経験を経て、今やそれらは過去のものになりつつあります。私自身もマスコミに煽られてか、自分の経験からか、その思いを強く持った人間です。子どもの職業など、できるだけ子どもの能力や特性を生かすものを選ぶことをサポートしたいと思い、家の職業を継がせるという考え方は、ほとんどありません。また組織の言うままというのも、ちょっと苦手です(単に我儘主婦?)。                                                      

ある面、著者の言う①自己がもっとも「神聖」なものとなる状況②「人生一度きり」なんだからという、楽しさ至上主義③マスコミなどに煽られて、「持っているはずの能力を開発しなければ」といった能力開発への情熱(子どもの能力も含めて)、という現代社会の3つの特徴は多少私自身にも合致していると思います。しかしながら、それらもほどほどでしかたちゆかない、という気持ちもかなりあります。

時代とともに変化する考え方、けれど皆の育ちは様々で同世代でも意識や考え方は違います。その違いを容認していくといった心遣いは大切にしたいというのは今の時代風潮と私自身同じです。けれどたまには率直にものを言いあってぶつかってもいいんじゃないか、と考えている点で「傷は癒えないのだから決して相手を傷つけてはならない」と考える今の若者とは若干違っているようです。それは単に私が大阪のおばちゃんキャラだからかもしれませんが・・・。

過度の「やさしさ社会」は実はこわい社会でもあるのかもしれない、と考えさせられる本ではありました。

「ニッポンの大学」 小林哲夫 著

  2007年12月20日発行  

あとがきに内田樹氏が書いているのですが、「大学はランク付けすることができるのか?」という意識を常に持ちながら、大学ランキング作りの達人が著した本です。

本当に様々な切り口から、大学をランキングしています。それもしっかりとしたソースを使って、また著者独自の哲学(感性?)に基づいてランク付けをしているのです。

かなりズバズバと大学名を挙げてありますが、それらはすべて事実の裏付けがあることのようです。これから大学受験をされようとする高校生、そしていずれは大学進学をと考えていらっしゃる保護者の皆様が一読されるのは、大変参考になると思います。偏差値だけではない、大学の実像が少しは分かるのではないでしょうか。                 

ウェブ時代をゆく -いかに働き、いかに学ぶか

梅田望夫 著 2007年11月刊

ウェブの進化によって学びや働き方を含め、バーチャルな世界とリアルな世界の二つが時に融合しつつ、新しい時代へと大きく変わっていくということについて語られています。

ウェブを利用することによって個人が発信できるというメリットは、このブログを通じて私自身も大きく感じている点です。先日もあるテレビ放送で、農村出身の中国人の若く美しい女性が「『大きい魚より、素早い魚が生き残る』現代にあって、必ず運命を 変えてみせます」と言っていた言葉が印象的だったのですが、スモールであってもそれが致命的にならない救世主の一つとして、ウェブの活用があると思います。

またリアルの世界で求められがちな全人的な参加ではなくとも、ウェブを使うと自分の時間の一部を使っていろいろなコミュニティに参加できるというメリットもあります。ボランティア・グループとしてはそういった点も生かしていけると思っています。もちろんリアルの世界の重要さも十分認識した上での話ですが。

オープンソースもウェブの使用によって広まってきました。情報を無料で公開することの重要さについて説かれており、それについても私自身深く共鳴しています。 マイクロソフトの行き方とリナックスの行き方については、やはりリナックスに魅力を感じていました。ただビル・ゲイツについては寄付金で運営する財団が「オープンソースを基準にしない組織には一切援助をしない」という方針を取ったと知り、驚きました。

この本でもう一つ印象に残ったのは、「大企業で生き抜けるタイプ」と「けもの道を開いていけるタイプ」について書かれていた第3章や第7章です。若者が就業を考えたとき、自分がどちらのタイプであるのかを認識しておくことは重要なようです。その認識の仕方のヒントが第7章で垣間見れます。今は名の通った大企業志向が強い世の中ですが、若者によっては一人でけものみちを行くことができる人もいるのです。いったい自分はどういった生き方が合っているのかをよく考えてみることが大切でしょう。親はつい安定志向を希望しますが、若者自身の選択を信じたいものです。

「学歴社会の法則」 荒井一博 著

今年12月20日に刊行された新書(文字通りの新書で、かつ新書版)です。新聞の下の方の広告に載っており、興味をひかれたので買ってみました。

著者は一橋大学で教鞭をとっており、教育経済学という分野の本です。7章と教育実践編の8つから成っています。教育経済学は教育という分野に限ったミクロ経済学ということですが、社会学や経済学という学問は、ミクロといえども社会の大きな流れを掴むものであり、ミクロの中のミクロである個々の家庭については必ずしも当てはまらないとは思います。しかしながら、傾向を掴むには有益なものでしょう。また人は経済を基準に学校選択や人生選択をしているのか、学歴というものが社会生活でそれほど重要なのか、といった点にも疑問はありますが、教育も経済を抜きにして語れないというのも真実でしょう。もちろんこの本では教育というものを経済学の観点から検討しようというものであり、経済的成功を云々するものではありません。

第1章では人的資本論に基づき、なぜ高学歴者は高所得を得るのかという説明がなされています。高い大学教育が人々に知識や技能を授け、また思考力・分析力・応用力・判断力を培い、そのことで社会に技術革新をもたらしたり、集団や組織を適切に統率したりなどすることで社会に大きな貢献をし、その結果、高所得を得るという考え方です。しかしながら大学へ通うことで、働くことによって得られたはずの所得を放棄しており、教育投資の費用に対する収益(私的収益と社会的収益)の観点から、過剰でもなく過少でもない最適投資量があるだろうということです。

しかし高学歴者が必ずしも有能ではないのに、社会的に高いポジションを得ているという現実も時に見ます。その説明として第2章では学歴のシグナリング理論の説明がなされています。人がどれだけの能力を持つのかを簡単に測ることはできません。しかしながら学歴は見えやすく、その能力をはかるシグナルと人々は考えているという理論です。大学へ行くためにもともと理解力のある生徒は高い費用をかけずとも大学へ行けます。それを教育費用が低いとよび、「教育費用が低い人は、社会で高い生産性を発揮する」という信念に基づいており、これは多くの人々の直観でもあるのです。大学は高い能力を育てる力がなくても、そのシグナルとして有効に働くという理論です。しかし資本市場は不完全であり、貧乏であれば働きながら学ぶということになり、教育費用は高いものになってしまいます。学歴は富裕度を示すシグナルにもなるのです。

実際には教育は人的資本論とシグナリング論の両方の機能が含まれています。義務教育や理系教育には人的資本論がより当てはまると言えるそうです。シグナリング理論は社会の思い込みに左右されるようです。こういった理論から、著者は奨学金制度の整備や、学閥などのシグナリング理論の弊害を克服すべきだと説いています。

第3章は父親と母親のどちらの学歴が子どもの学歴を左右するのか、また働く母親と専業主婦のどちらが子どもの学歴を上げるのか、ということについて語られている興味深い章です。一般的に親の学歴が高いほど子どもは高学歴になります。遺伝の問題もありますが、教育環境や情報量の違いも影響するようです。ですから国家が適切な施策をしないと、教育を通して階層の固定化が進み、所得格差が増大するだろうと著者は言います。父親と母親の学歴と子供の学歴の関係ですが、母親の学歴がより子供の学歴に影響するという結果が研究から出ているそうです。なおかつ同性の親の影響が強いという傾向が見られるとのことです。母親の影響ですが、やはり接触時間の長さなどでより影響が大になるのでしょう。小さい頃からの母親の関わりを見逃すことはできないようです。そういう意味で女性の高学歴は社会に貢献していると言えるでしょう。しかしながら経済発展が進むにつれ、母親の学歴効果は薄れます。それは女性の就業機会の増加や、教育市場を使って教育を行うという結果だそうです。母親が就業することによって子どもの能力は下がるのか、という問題ですが、母親の所得を何に使うかということも問題になってきます。しかしながら、子どもがごく小さい頃に与える教育効果はかなり大きいということで、母親の休業制度の充実や質の高い託児サービスが働く母親には不可欠だと著者は述べています。

次の第4章から第7章については、現在検討されている教育改革について、さまざまな研究結果と著者の見解が述べられています。                                              第4章では、学校選択制とバウチャー制について語られています。学校選択については、進学実績という一元的な基準で学校を選択する父母が多いと考えられ、生徒数に偏りが生じ、人気校には多大の施設や人員の配置のためにお金がかかり、また少人数校は廃校といった結果も出てくるかもしれない。また地域との繋がりも薄れるだろう。そういった費用対効果を考えると、あまり有効な手段ではないだろうということです。バウチャー制度についても、私学に有利になるだけで制約の多い公立にとっては有効に働かないであろうということです。米国・チリ・ニュージーランドなどバウチャー制度を行っているところの調査からも費用の割に効果は低いという結果が出ているそうです。ただ有効なのは高い能力がありながら、親の経済力のために良質の教育を受けられない生徒に対してであるけれど、そうすると高い能力の生徒が抜けた公立校の水準が低下するだろうということです。いじめなどについては、ある程度の学校選択ができる制度は必要だろうと著者は認めています。

第5章では英語教育について語られています。日本人にとって英語は投資のわりに力がつかない語学だそうです。著者自身も英語についてはかなり努力したそうですが、まだまだネイティブの力には程遠いと感じているそうです。日本人が時間的にも経済的にも英語に多大な投資をするなら、それをもっと違った方向に向けた方が良いのではないだろうか、と語っています。もちろん必要のある人は投資を惜しむべきではないのですが。そういったことを踏まえたうえで、日本の英語教育の改善法が最終章で述べられます。

第6章では、いじめを経済学的に分析します。いじめは西欧でも、また職場でも広く見られる行為です。職場でのいじめは一部の組織成員の利益を高めたり、標的を弱体化させるために陰謀という形で行われることが多いそうですが、学校では単なる嘲弄の面白さ、ストレス発散、自己の優位性誇示のために行われるということです。また日本では集団対個人ということが多く、欧米では個人対個人の傾向があるそうです。いじめの予防や根絶には、生徒のインフォーマルネットワークを監視する必要があると述べられています。いじめは被害者、加害者とその取り巻き、そして傍観者によって成立します。そこに介入する生徒、もしくは教師や親が必要なのですが、加害者は不正を暴くような生徒をネットワークに参加させず、また教師や親など部外者は気付いていないという状況の中で進行します。いじめを根絶するためには、このネットワークに参加することがいかに倫理にもとることかを繰り返し説き、参加することで人間としての評価が下がるという、便益の著しい低下を自覚させるのが有効だそうです。するとネットワークの結束力は低下します。それとともに良い人間関係を築く積極的な雰囲気作りも大切だそうです。

第7章では、学級規模について検討されます。まず不適格教員排除についての動きですが、問題教師は確かに存在するものの、学級崩壊などについては生徒の勉学意欲や公徳心の方の問題の方が大きいだろうということです。学校には、真摯な努力、他者に対する配慮、きびきびとした立ち居振る舞い、凛とした雰囲気という文化が必要だと説きます。その上で授業内容の体系性が求められます。決まっている授業内容を正しく教え、生徒の質問に答えることが授業の最低限度の目標となります。教師の給与の増大とともに、マスコミによる教師叩きの自粛も必要だということです。                                                                                       次に少人数教育について述べられています。著者の知見によると少人数教育の教育効果は費用のわりには高い結果が出ているとは言えないそうです。それよりも教師の質を高めることのほうが効果が大きいそうです。また同じ能力の生徒が集まることによるピア効果は大きいそうですが、小学校では学力の最大化よりも厚生の最大化や、連帯性を重視することが大切で、能力別クラスの編成には慎重であるべきだということです。

最終章では経済的収益率をアップする学習の提案が行われます。                                                                           著者は年齢とともに、道具習得と使用、体系習得と使用、独創(応用)の割合が変化していくといいます。道具を楽しく習得し、年齢とともにそれをどう使用していくかの体系を学んでいきます。大学受験ではそういった体系を身につけ、将来の独創性に繋げていきます。論文入試ではそういった体系を身につけているかを調べることは不可能なので、著者は賛成していません。ほとんどが予備校でならった模範解答のような文章を書くだけになっていると述べています。そして履修科目を削ることなく、広い視野で体系的思考ができることが不可欠だといいます。また常に考える癖をつけることが大切だということです。数学は難問に答えられるようにする必要はなく、しかし高校程度の基本の数学は大学進学者の誰もが身につけておく必要があるといいます。                                                                             最後に英語学習について述べています。収益率を考慮した英語学習として、すべての日本人が英語力を上げる必要はなく、英語能力があり、仕事で必要となる個人のみが英語力を上げればよいと著者は考えています。パズルのような英語の難問読解などは必要なく、大学の専門分野では平易な英語が書かれているのであるから、それを読める程度の英語力をつけること、また書く力については難解な和文英訳の必要はなく、ある程度正しい前置詞や冠詞を使いこなせて、関係詞や接続詞を適切に使って文の長さを適切に保ちつつ滑らかに論理を展開する能力が必要だといいます。 そのためには英単語がどのように使われるかを覚えること、英文を書いて文章のうまい英米人に添削してもらうこと、英語の使用法を詳細に説明した辞書を作ることだそうです。声に出して英語を読むことは非常に有効だということです。                                                                小学校の英語教育についてですが、下手な日本人に教わっても意味がなく、英米人教師が週2時間程度でも教えれば、生徒の聞き取り能力は向上するだろうということです。しかし、そうやって使った週2時間と英語教師に払う費用に見合う効果があるかどうかは検証してみなくてはならないということです。  

なかなか興味深い内容でした。一人一人には当てはまらないことはあるでしょうが、教育を経済学的に見るには分かりやすい本だと思います。     

「会議の政治学」 森田朗 著


この本は社内会議など、一般的な会議に関する内容ではありません。著者は行政分野での審議会で委員や委員長を数多く経験してこられた東京大学公共政策大学院長です。そこでの経験をもとに書かれた本で、審議会での議論の進め方について書かれています。


ごくたまに私は自分の住む市の教育に関する審議会を傍聴することがあるのですが、そこでの議論は、まさしく役所の行政にお墨付きを与えるたものものだなあ、と感じます。もちろん役所の行政は財政逼迫のために、最小限の財源で最大限の教育効果をということを意図されているわけですが、住民側の私からすればいろいろな施策の縮小を感じてしまうのです。


この本では審議会というものは、どういうふうな委員が集められ、議事をどういうふうに運営していくかについてかなり正直に書かれています。著者は座長の経験も多く、多数派、反対少数派、中間派をどういうふうに取りまとめ説得していくかなどの説得工作、また事務局の役割についても、かなりあけすけに書いています。


今の政治を見ていると、我々、一般人のあずかり知らぬ所でいろいろと決定されていくように感じることがよくあります。国会中継はたまにされていますが、それとても常時されているわけではありません。審議会については、なおさら一般人には情報が入りません。ましてや地方行政については、いつのまにか決まっていることも多くあります。


教育に関して、地方の教育委員会のサイトを見ていると審議会議事録が公開されていることもありますが、その公開には結構時間がかかっていることもしばしばあります。実際に審議会が開かれてから、事務的な作業もあって公開が遅れるのかもしれませんが。


アメリカに住んでいるとき、ケーブルのコミュニティ局でよく教育委員会の会議状況が放映されていました。アメリカの場合、教育委員会というのは日本とは全く違って、地域の意見が反映されて運営されるものだからでしょう。(放映も地域によるでしょうね)


もう少し、人々が自分に関係のある政治に意識を向けられるよう、なんらかの方法が考えられるべきではないかしら、と思います。

「子どもからの贈り物」 ひぐちみちこ著


お友だちに紹介していただいた本です。とっても良い本です。ぜひ手元に一冊置いて、時々読み直されてはいかがでしょう。(アマゾンのロープライスだと、びっくりするようなお値段です!それに、そんなに分厚い本ではないので、海外へ送っても安いと思います。)


ひぐち・みちこさんは絵本「かみさまからの おくりもの」を書かれた方です。赤ちゃんが生まれる時に神様は一人一人の赤ちゃんに贈り物をくださるのだそうです。例えば、よく泣く赤ちゃんには、天使が「うたが すき」という贈り物を届けてくださいました。


子どもはみんな一人一人、そういった贈り物を貰って生まれてきたのでした。でも、それは「できる、できない」とか「上手、下手」といった価値判断をくだされるものとは、全く別個のものだというのです。「あの子はこんなことができるけど、うちの子はまだできない」といった考え方とは、まるで違います。〇〇ができる子は素晴らしいといったような、母親の努力で、我が子が何かをできるように導いていくのが子どもを育てることではないのではないか、というのが著者の考え方です。


お母さんがそうだと、子どもが「何かをしたい、何かが好き」というよりも「私は何々ができる」「ぼくは何々ができない」といった認識の仕方が強くなってしまうというのです。あることができて、それを周りの大人から評価してもらうことが自分の価値のように子ども自身が思い込んでしまうというのです。確かに、それはその通りのような気がします。子どもに無駄な負担感を強いてしまいそうです。


そういった評価を気にしすぎた結果、子どもは失敗を恐れてできそうなことにも初めは近付かなかったり、うまくいかないとすぐ諦めてしまう子ども達が増えてきたような気がすると著者は言います。ハサミを持たせても、切り抜く点線が無いとどう切れば良いかわからないと言ったり、チラシの自動車を切り抜くのに、ぴったり正確に切ろうとして立ち往生してしまったりする子どもがだんだんと増え、それが低年齢化しているというのです。


「できる子どもの苦しみ」についても著者は書いています。小さいときからなんでも良くできる子は、そのできることを維持するために多くのエネルギーを費やさなければなりません。また、長じては成績維持のために、自分の知識を自らに閉じ込めて、孤独になっていく子もいる、と言います。本来の学びの楽しさから遠ざけられてしまう痛ましい子どもも居るのだと言います。


著者は病弱な母親に育てられました。いつも家で寝ているか本を読んでいるかして、よく近所の人が立ち寄る家だったそうです。母親はたっぷりと時間があって、豊かな愛情を子どもにかけてくれる人でした。決してせかしたりせず、ちょっと先の育ちに信頼を置いていた人だったようです。


子育てをしながら、自分自身の成長の過程で学び損ねたものを学ぶこともできるのではないだろうか、とも書いています。(その内容は、本を読んでくださいね。子どもへのイライラの原因は、自分自身の育ちにあったとか)


著者は今のお母さん方を見ていて、一つはよその子に負けてはいけないという競争社会にお母さん自身が生きていること、そしてもう一つは、皆と仲良くできなければいけない、お友だちがいっぱいできなければいけないと小さい頃から集団の中でうまくやっていくことを期待しすぎて、緊張感でいっぱいになっていると言います。            競争社会という列車に乗って、知らず知らずにスピードが上がって行く中で、子どもが「お母さん怖いよー、降りようよ」といった悲鳴を上げてくれる場合もあります。それこそが気付きのチャンスなのでしょう。「あなたはあなたのままでいいんだよ」といった防波堤になってやることが必要なのだと説いています。                        また一人遊びも大切ですし、その時間に子どもは自分の好きなものを見つけていくこともある、と著者は言います。無理矢理、皆と遊ばせなくても、子ども自身が遊びたいという欲求を自然に持つから、それまで待てばいい、ということです。


神様は子どもに贈り物をくださいました。同時に、親たちには子どもという贈り物を届けられたのです。子どもが傍に居るだけで、いろいろな経験ができますもの。                                          また、子どもにそれぞれの個性という贈り物をくださったのと同様に、私たち親自身が生を受けたときにも贈り物を貰ったはずです。その贈り物がなんだったのかに気付くことも大切です。著者もちょっと書いていますが、もしかしたら私自身は「おせっかい」という贈り物を貰ったのかもしれません・・・。


「まわりの大人たちが、それぞれ神さまからもらったものを持ち寄って生かし合うことができれば、どんなに暮らしよいことでしょう。それぞれが自分のありのままを出し、それをより良く他者のために役立てる姿を子どもたちに見せてやれれば、子ども達も天からもらったものを生かして生きるすべを身近に学ぶことができるのではないでしょうか」


最後に私自身への反省として、次の著者の言葉に考えさせられました。                      私の子育てはなかなかうまくいっていると思っているお母さんたちへ。             お母さんが、その子のもらった贈り物に気付き、その子らしさを認めているがゆえにうまくいっているのなら、本当にすばらしいことです。でも、もしかしたら子どもが自分らしさを守ることを放棄して「ボクはボクなんだけど、もういいや」とお母さんに合わせているので、うまく育っているように見えるのではないかと、ときどき立ち止まって考えてみることも大切だと思います。← もっともっと気をつけていきたいことです。それぞれの子どもが、その子らしくあればいいと思っているつもりでも、私の枠にはめようとしていたのかもしれないな、と思っています。

「いじめの社会理論」 

6月3日に内藤朝雄氏のいじめに関する本を取り上げました。その際、「いじめと現代社会」については、なんとか書きましたが、「いじめの社会理論」の方は書名を挙げただけに終わってしまいました。http://peerskansai.blog85.fc2.com/blog-date-20070603.html


今日、改めて「いじめの社会理論」の方に再び目を通したのですが、ちょっと難解でうまく纏めることができません。もしイジメについて深く理論的なことがお知りになりたければ、どうぞじっくり本をお読みになってくださいませ。以下、私なりに本の内容のごくごく一部ですけれど、書いてみたいと思います。


   


戦前は国家というものが全体主義体制に陥っていました。「個人は国家の側から自己が何者であるかを知らされるような仕方で生かされ、国家に献身する限りにおいて個人の生は生きるに値するものとなる。当然、このような善い生き方は個人に強制すべきである。個人の自由と国家の共通善が対立する場合には国家の共通善を、個人の権利と国家のきずなが対立する場合は国家のきずなを優先すべきである」といったようなものでした。


現代日本は先進国水準の民主的統治機構を持っています。しかし今は国家ではなく、学校や会社といった中間集団の中に全体主義の座が移動したと著者は言います。(p.21)


それを解体するには、各人が自由に距離を調節し、ねばりつく関係性に対してよそよそしく距離をおいて生きる権利を保証するのが正解である、ということです。しかしいまだに共同体のきずなを説く人が、とりわけ教育共同体のきずなを大切にしようとする人が教育関係者に多いと著者は指摘します。


例えば「賢治の学校」を主催する鳥山敏子は、そのセミナーで加害者と被害者の「気持ちのぶつけあい」をさせ、被害者にとっては屈辱的体験を再演することで癒そうとします。けれど、それは内籐からすれば被害者の自罰と内向化をもたらすに過ぎないということです。(p.53)


p.109には登校拒否の子どもが精神科医に「学校なんて行かなくていい」と言われたことで家庭内暴力が始まり、父親は自殺してしまったケースを取り上げています。生徒が「重症の学校病患者」の場合、まずは加害者へのしがみつきを共感的に受容して、その後、タイミングを見計らって被害者の加害者へのしがみつきを心理的に切断し、構造的な問題に切り込んでいくという作業が求められます。けれど、時に人々はそこを混乱して、この精神科医とは正反対に学校制度そのもののあり方を全肯定してしまう、という陥穽に嵌まることもあると著者はいいます。


学校共同体では「単純明快につきあわない」ということができない。朝から夕方まで過剰接触状態で「共に育つかかわりあい」を強制する学校では、たとえ赤の他人であっても「友だちみんな」と一日中顔をつき合わせてベタベタしなければならない苦痛があると言います。(p.131) これに対して、内籐は教育チケットというバウチャー制度を提唱しています。(p.280) 過疎地ではうまく機能しない制度ではないかしら、という気も少ししますが、自由度を高めるということはもっともっと考えられてもいいことでしょうね。


p.262から「自由な社会の構想」について述べられています。Aさんにとっては「このおかげで生きていける」というものはBさんにとっては醜悪きわまりない。Cさんにとっての幸福はDさんにとっては退屈そのもの。Dさんが生きていることを実感するきらめきはEさんにとっては底冷えのする嘘の世界。本当に人の好みや生き方はさまざまです。けれど自由な社会では、互いに相容れないスタイルで生きる人が、平和に共存しなくてはなりません。全く別のタイプの生を生きる人たちを、いつも目にして生きることを我慢しなくてはなりません。自由な社会では、自分にとって醜悪なものが大手を振って生きていくのを見ることに耐えねばならぬとしても、自分がそのスタイルに巻き込まれる心配はしなくてもいいのです。各人が自分なりのやり方で美しく生きる試みを可能にするのが、著者の言う「自由な社会」なのです。


こういった社会を保証する行政であってほしい、と私も切に望みます。それとともに、子ども達には学校という限られた空間で息が詰まっているなら、そこから逃げる手段はきっとあるよ、そして明けない夜はないよ、と言いたい気持ちです。


                                                                 

「日本語教師の『衣』再考」
                              

海外子女教育振興財団の月刊誌「海外子女教育」8月号の本の紹介に載っていたので読んでみました。


教師とは生徒との権力関係において常に権力者であるべきではなく、生徒から学ぶ存在でもあって、絶えず関係を再構築していく心構えが必要であると書かれています。教師として身に付けてしまった分厚い衣について、よく考えてみましょう、ということですけれど、これは親子関係にも大いに当てはまりそうに思えました。


読んでいて何箇所か、私の心に留まったところを挙げて、感じたことを書かせていただきますね。                                                   


p.55には著者が接した帰国子女の体験が書かれています。高校生帰国生徒が食堂へ入って「五目そば」を注文しようとして、「ごめそば」と言って通じない。それを同じ帰国生徒の友達が「違うよ。いつつめそばだよ」と言って、やっと店員さんが「ごもくそば」とわかるといったエピソードです。これは友達が同じ帰国生徒だったから良かったんですけど、日本で育った人だったら、どういう反応をするかしらと思うと、帰国子女が辛いかもしれないなあ、という気がしました。私も子どもが「丹波路快速」という電車名を「タンバロ・かいそく」と読んだ時は、思わず笑ってしまいましたが、日本で育っていないと大和路(やまとじ)のように路を「じ」とは読めなかったりするんでしょうね。でも、今時、日本で育っていても読めない人も居るんですけど、本人はコンプレックスを持ったりしてしまうのかもしれませんねえ。


p.62には「不適応」イコール悪いことではない、ということが書かれています。私は本当にその通りだと感じています。不適応そのものは本人にとって辛いことです。けれど他人(時には親)から見れば、可哀相には思っても、成長の糧になると思ってしまったりもします。対峙する人(教師、時には親)は不適応から目をそらさず、どう関わっていけばいいのかは試行錯誤であっても、一緒に考えていくことが大事なのだろうと思います。そうすれば、後で振り返ったとき、そこで一つ成長をしたと感じられるのではないでしょうか。


p.66では「摩擦はよくないものだ」という考えがあるけれど、失敗やコンフリクトによって集団というものは成長していくのだと書いてあります。それは著者の運営した大学内の多文化クラスでの経験に基づいています。成功した時期よりも、試行錯誤の時期にこそ実践としての意義があったように感じているそうです。摩擦は回避すべきものではなく、摩擦に向き合い、粘り強く付き合うことで、そこから学びが生まれる、という意見には私も激しく(?)同意します。スマートさだけを求めていてはダメなのでしょうね。


p.139では構築したイメージに捉われることなく、常に最初の見方とは異なる批判的かつ複眼的な見方をすることが大事だと書かれています。自分が「理解していた」と思っていた世界を「実は理解していなかった」と気付くのは辛いことですけれど、一度持ってしまったイメージが必ずしも正しいとは限りません。自分の思い込みに気付くことは大切です。私も思い込みが強い方ですけれど、再構築をすぐしてしまう方らしく、子どもには「コロッと変わり過ぎ」なんて言われることもありますが、でも「気付き」は大切ですよね(笑)。


p.143には「教師は、学習者自身が過去と現在、未来を繋いでいくサポートをする立場」であり、「こうあるべきだ」と設定して示し導く作業ではなく、学習者と共に『今、ここ』を共有しながら一緒に歩いていくプロセスに関わっていく」ものだと書かれています。それにも強く同意いたします。教師と学習者だけではなく、親と子もそうですし、このブログでの私も常に皆様と共に歩いていく立場であることを崩したくないと思っています。


p.167から168には面白いエピソードが書かれています。海外に10年間暮らしていた帰国児童とその母親が「日本語教室」にやってきます。そこで親が教師に「海外に長い間いたので、あまり日本語が話せないんです」と言うと子どもの表情が硬く緊張したものになりました。その後、他の大人が母親に「海外のどこにいらしたのですか」と聞くと、「アメリカの〇州です。ご存知ですか」と答え、「いいところですよね」「ええ、とってもいいところですよ。気候も穏やかで自然もあって」と答えると、みるみる子どもの緊張がゆるみ、安心したような表情になり笑顔も出たそうです。親の一言で子どもの気持ちが如実に変わるのですね。ぴっかりさんのブログでも、子どもの緊張感や感情抑圧について書かれていましたけれど、親の言葉に子どもは耳を澄ましているのですねえ。いつもポジティブな気持ちでいたいものです。


p.176には「人の話を聴く」ときに、相手が何者かを即座に判断せず、「判断を留保」してありのままの相手とつきあってみましょう、と書いてあります。それはもやもやとした感覚をもたらすかもしれませんが、そのもやもやと粘り強くつきあうことが大切だとあります。確かに人はすぐに相手を判断しようとするきらいがありますよね。けれど相手をとりあえず判断せずに聴くということを、もう少し大切にする必要があるような気がします。早々とイメージというか固定観念を作って話を聴いていては、相手の本当に言いたいことや良さにも気付かなくなってしまうことでしょう。                         


ここでも一つエピソードが書かれています。帰国がイヤだという生徒の言葉を教師は「帰国は辛いよね」と簡単に理解してしまいます。でも、そこでちゃんと聴けば「Aちゃんと離れるのがイヤなのだ」ということがわかってくるのです。私も子どもと会話をしていて、そういうことが度々ありました。親の感覚というか、大人の常識といったことで判断してしまっていて、よーく聞いているうちに私とは全く違った感覚で捉えていることに気付くことが今でもあります。その感覚というのは、兄弟で分かり合える子どもならではの感覚であったり、兄弟同士でも分からないその子独自の感性であったりします。自分の固定観念で話を聞かず心をまっさらにして聴くということは難しいけれど、よーく聴いているうちに分かってきたりするものなんですよねえ。親子ならコンフリクトを厭わずに、しっかり聴けると思います。私は親しい友人ならば、他人でもそうありたいと思っている方ですが、皆さんはいかがでしょうか。               

「教えることの復権」 

この本は有名な国語教師、私の憧れの国語教師である大村はまの行った授業について、自身とその教え子である苅谷夏子さんとの対談を中心に、夏子さんの夫の苅谷剛彦さんとの三人で共同して編まれた本です。


今、教育社会学者として非常に有名な苅谷剛彦さんの奥様が、大村はまさんの教え子だったということに、そうだったんだぁ、という裏話的(?)な面白さも感じて読み始めました。


 


この本は教師に向けて書かれた本と言えるでしょう。大村はまの素晴らしい授業について知ると、今の先生方への注文が厳しくなるかもしれません。けれど私は親として、そうやって読むべき本ではない気がします。先生や外部に注文をつけるより、親としてなにか学べることがあるように思うのです。(もちろん十分子どもに関われない親も沢山いらっしゃるので、公教育を担う教師にはいろいろ期待はしたいものです)


大村はまは中学の国語教師だったのですが、教科書を順に教えていくといったような授業はしませんでした。教科書はあくまで素材として扱われます。子どもにつけさせたい力を、どうやってつけていくか、ということを常に念頭に置かれていて、本や新聞、果ては広告まですべてのものを教材として利用していかれます。時には生徒一人一人に違ったものを渡し、そこから何かを学ばせます。一人一人の個性をいつも真剣に捉えていました。ふだんの会話の中から子どもを知って、適切な素材を与えます。その会話というのも、友達的な会話ではなく、教師としての凛としたものを持ちながら、けれど暖かみのある会話だったようです。


授業についても、一度言ったことは必ず聞いているはず、といった前提でなされました。ですから常に緊張感に満ちたもののようでした。といっても、それは厳しいといった雰囲気ではなく、教師としての責任感に基づいたものであったのです。


大村はまは元は高等女学校の教師だったのですが、戦後、自ら希望して新制中学の教師になりました。それは東京のごく普通の中学でした。当時は中学を卒業して、そのまま就職して大人社会に入る人も多かったわけで、大村はまは中学を大人への最後の準備段階と捉えて、「一度、聞いたことは繰り返し尋ねない」という大人社会のルールを子ども達に伝えようとしたのでした。                            新生日本を支えていく子ども達に「ことば」の力をつけることを自分の使命と思い定めた教師だったからこそ、労力をいとわず取り組まれたのだろうと思います。真っ当でゆるぎない信念に基づいていたのです。                                                             


また教材を手作りしたというのも、戦後、教科書も整わない時代に、お茶碗を包んだ新聞紙の皺を伸ばして教材として使えるものを切り取っていったというような経験で培われた教師としての力でした。                                                        海外で十分な本も無いかもしれません。けれど知恵と工夫でやりようはあるのかもしれないなあ、と感じたりしました。


p.115には漢字学習にもちょっと触れています。面白いと思って読んだものには心が生き生きと動く。その時に出てきた漢字はさほど苦労せず習得できるものだ、というふうに大村はまは言っています。


この本から感じたのは、詰め込みではなく、子どもを引き込む「てびき」をしていくことが大切なのだ、ということでした。素晴らしい教師というのは、その努力を惜しまないのだなあと感心することしきりでしたが、親がここまでは出来なくても、なにかうまく子どもを「手引いていく」ことは心掛け次第で多少はできるのではないかしら、という気がしました。


子ども中心といった一見ヒューマンなものが、決して子どものためにならない、ということもあると書かれています。それは学校教育について書かれたものであり、家庭における教育ママにはむしろ逆のアドバイスが必要なのかもしれません。けれど、本当の教育ママというのはお受験に惑わされたりすることなく、もっと適切に導ける人なのではないかしら、と思います。                                                      とはいえ、それも中学生くらいまでのことでしょう。ましてや大学生の子どもに、とやかく口出しはできないのですから、それまでに基礎を培っておかないといけないのでしょうね。親の感性と工夫の心が大事な気がいたしました。

テーマ:国語教育
ジャンル:学校・教育
「親業」 トマス・ゴードン著

以前、親子関係が劇的に(?)良くなったというお知り合いに教えていただいて読んだ本です。「子どもが親の思い通りになってくれない」「思春期の反抗に悩んでいる」といった親達にとって大いに参考になる本だと思います。                                                 子育ての根本は洋の東西を問わない普遍的なものではありますけれど、著者はアメリカ人ですから、アメリカで子育てする人や、インターなどに通っていて、親の持つ日本文化と違った文化を身につけている子どもへの対応にも役立つと思います。


著者は1962年、ロサンゼルス郊外のパサデナで17名の親とPET(Parent Effectiveness Training)のクラスを始め、その後1970年に本書が発行され、  そして1977年には日本で翻訳出版されました。その時にPETは「親業」と翻訳され、良い親になるために有効な訓練があることが日本でも認知されるようになっていきました。1980年には日本にも親業訓練協会が設立されましたが、この本はそういった「親業」と称されるものの、おおもとのテキストだと言えるでしょう。


子どもを生んで親になることはできるけれど、親として子どもと適切に関わることは簡単なことではありません。けれど、どんな親も十分潜在能力は持っているのだそうです。その力強い言葉を励みに、本を読み進めていくことができます。


子どもの問題行動を見たときに、ほとんどの親が口にするのは                   ●命令、指示●注意、脅迫●訓戒、説教●忠告、解決策などの提案●講義、論理の展開●批判、非難●同意●悪口を言う、ばかにする、辱める●分析、診断●同情●質問、尋問●中止、注意を他へそらす                                                     といった12の反応になるそうです。親がすべきことは、そうではなく、能動的に聞く(聴く)ことで子どもの感情のメッセージを正しく受け取る、ということなのです。相手の世界観に立って聞く、そういった柔軟性を持った人は、自分が変化していくことを恐れません。他の人の経験に対して心を開いている、ということは自分自身の経験を解釈し直す可能性を持っています。


p,80では子どもとの話を、結論もしめくくりもはっきりせずに終わらせても構わない、と書かれています。それは、自分の人生の問題に建設的に対処しようとしている子ども自身の能力に信頼をおいても大丈夫だということなのです。                                 


言葉によって子どもをコントロールしないこと、親の「解決策」を使うように子どもの命令し、脅迫し、訓辞を垂れ、忠告しては、親からの離反の気持ちは増大するばかりです。友人にはこういった言動を取らない人も、子どもにはついそうしてしまいがちです。子どもは黙らせられた、やりこめられた、コントロールされている、と感じるのも当然ですし、時には他人から棚ボタで解決策を提示されるのを待つ人間になってしまいます。                                                          親のやりこめ、やっつけメッセージは、子どもに無力感を与え、自分に対する誇りや自信をなくさせ、時には自暴自棄な行動を取らせてしまいます。


さて「能動的に聞く」といったことのほかに、もう一つの重要な方法(心構え)があります。それは「勝負なし」法というものです。親が子どもに勝つのでもなく、また子どもが親に勝つのでもない方法、それが勝負なし法です。親も子も納得できる方法を見つけるというやり方です。子どもが本当に望んでいることを知り、親の望みと付き合わせた上で両方が合意できる方策を見つけるということです。時間がかかりそうな気がしますが、慣れてくれば解決方法は案外早く見つかるようになっていくもののようです。いろいろな事例が示されていて、なるほどね、と思います。そして次第に対立そのものが無くなっていくのです。                                          勝負なし法は6つの段階から成っています。                                                 1、なにについての対立かをはっきりさせる。                              2、いろいろな解決案を出してみる。                                    3、出てきた解決案をひとつひとす吟味する。                                    4、一番良い解決策を選ぶ。                                        5、その解決策をどうやって実行するかを考える。                            6、うまくいっているかどうかを調べる。


一般にコンサルタントは依頼者に対して、自分の知識や経験を提供しますが、決して強要はしません。子どもに自分の価値観を伝えることは重要ですが、押し売りをしないことが大切なのです。


この本を読んで、子どもを信じる、ということが大事なのではないかと私は思いました。お仲間とも常々そんなことを語り合っています。子どもに良かれと思うことであっても、押しつけると却って子どもは逃げ出してしまったり反抗したりするものです。本来、人間はより良くなろうとする生き物だという気がします。信じて待つことが大事なのでしょう。                                                最近見た映画「東京タワー オカンとボクと、時々オトン」でもお母さんは子どもを信じ続けていました。私から見たらほんとに困った放蕩息子ですけれど。 つい先日も新聞の投稿欄で、それに似た内容のものを読みました。大学に進学して1人暮らしを始めた息子が、大学にもまともに出ず、友達と遊んでばかりいる様子。糸の切れた凧のようだけれど、思い返してみれば自分も出会ってわずか3ヶ月の主人と結婚し、すぐに子どもを授かって生活を始められたのだとか。いったい親はどんな思いで見守ってくれていたのだろう、と回顧していらっしゃいました。


親業について、親業訓練協会のサイトが分かりやすいです。 http://www.oyagyo.or.jp/ 「親業ってなに?」というコーナーや「事例・体験集」をお読みになると、上記の私の下手なレジメより理解しやすいかしら、と思います。


ここで御紹介した親業ですが、大阪でも講座が開かれています。関心のある方は一度お話を聞きに行かれてもいいかもしれませんね。http://www.oyagyou.net/

テーマ:子育て・教育
ジャンル:学校・教育
「大切な忘れものー自立への助走」

友達に勧められて「大切な忘れ物 ― 自立への助走」(横川和夫、1997年6月)を図書館で借りて読みました。


この中で特に皆様にお薦めしたいなと思ったのは(そして私の友達もそこを勧めてくれたのだと思いますが)、第5章、第6章、第7章のシュタイナー教育の部分です。


シュタイナー教育にかぶれている人たちは、ちょっと浮世離れした人たちといったイメージが私にはありました。でも、第7章で書かれているのは、その研究の第一人者の妻であり、シュタイナー教育についてのセミナーも開いている広瀬牧子さんでさえ点数教育、競争教育の呪縛からなかなか逃れ出せずにいたということです。しかし子どもをじっくりと見守るなかで、次第にその真髄を理解していかれます。(第6章はドイツのシュタイナー学校での取材、第7章は研究者として、また父親としての広瀬俊雄さんを中心に書かれています)


人間自身の意欲を育てていく教育なんだ、と私には感じられました。複数の子どもを育てると特に気がつく子ども自身の気質の違い。それをシュタイナーでは大切にします。発達段階に沿った教育を施していくことも大切なことです。7歳までは模倣の時期。大人の模倣を楽しむことを理解して、子どもの意欲を育てていきます。家事手伝いをさせるのもその一つです。この時期に童話を読み聞かせ、喜怒哀楽の感情を呼び起こすことで、将来、悪を憎み、正義を喜ぶという正義感や道徳感情が養われます。7歳から14歳までは、子どもに判断させずに親や教師が権威を示します。あまりに早い時期から判断を迫ると、子どもはむしろ親の目の色をうかがって主体性を失っていくのだそうです(これは、ちょっと意外でしたが、そうなのかもしれません)。14歳からは観念と判断の年代になっていきます。


子どもは絵を描くことが好き。そういった自然の意欲をとても大切にします。生き生きと取り組むことを体験させます。幼児期、児童期に意志や感情が十分に発達すると、青年期になって思考力が著しく深まるようになるのだそうです。                  子どもを国家に合わせるのではなく、その子なりの人生の目的をつかみ、自分の力で生きていくための手助けをしていこうとするのが、シュタイナー教育の目的なのです。


人は自分の好きなことなら夢中になりますよね。集中力を持って取り組むことができます。大人だってそうですよね。(私は、今、このブログでしょうか)             いろいろなお子さんが社会生活を始めなさるのを見ていると、生きる意欲を育てていくのがとても大切なことなのだと、最近つくづく感じます。シュタイナー学校が認可されるのはまだまだ先かもしれませんが、シュタイナー教育を自分の家庭教育に取り込んでください、と牧子さんはおっしゃっています。


皆さんも、一度、お読みになってくださいませね。子どもが学校に通う頃には、つい無視してしまいそうになることが、本当はとても大切なのだということを早くから体得しているお母さんこそ賢いお母さんなのじゃないかな、と思います。

親として読んでおくと、いいかも?

多元化する「能力」と日本社会                                     -ハイパー・メリトクラシー化のなかで- 本田由紀 著 2005年11月               



著者は新進気鋭(40代前半?)の研究者で東京大学大学院情報学環助教授です。教育や労働についての著書があります。『「ニート」って言うな!』でも有名です。                    この本はアンケートを解析して書かれた量的研究です。ですので、そのアンケートの取り方が目的に叶っているのか、そしてその解析方法が正しいのかは、素人の私には判断がつきかねますが。


現在、非常によく耳にする「人間力」や「生きる力」といった言葉。それを著者はハイパー・メリトクラシー(超業績主義)という造語を使って表しています。従来の勉強ができる、順応性や協調性があるといった能力を「近代型能力」とするとハイパー・メリトクラシーは「ポスト近代型能力」ということになり、意欲や独創性、対人能力やネットワーク形成力、問題解決能力などを指します。著者はそういった全人的な力を要請する社会の声にある種のうざったさを感じ、そういった社会でどう青少年を育てていけば良いのかを提言しようとしています。 


序章                                                      少し前までは良い学校を出て大きな良い会社に勤めれば安心といったような状況でした。けれど現在は将来が見えず、常に先行き不安という閉塞感があるといいます。そこで必要となる能力は上記のような「ポスト近代型能力」であり、それは個々人の生来の資質か、成長する過程における持続的な環境条件によって決まる部分が大きいと考えられます。またそれは個人の内面的なところまでを評価するものになってしまうといいます。とはいえ、まだまだ「近代型能力」も十分機能する部分もあり、現在はさらにその上に「ポスト近代型能力」を要請される状況だということです。


第一章                                                    現在、経済界においても、教育界においても、ハイパー・メリトクラシーの大合唱です。96年に経済団体連合会が出した「創造的な人材の育成に向けて」という提言では「自分自身の目標・意思に基づいて、既存の知識に捉われない発想により自分で解決する能力」などが強調されています。そして04年に打ち出された提言では、さらにそれらが強化され、「第一に使命感を持って取り組む志と心、第二に情報収集や交渉・調整などの行動力、第三に深く物事を考え抜く知力」と述べられています。また教育界においても、96年の中教審答申では「生きる力」という言葉が現れます。「先行き不透明な社会にあって、その時々の状況を踏まえつつ考え判断する力、入手した知識・情報を使ってもっと価値あるものを生み出す創造力、自分で課題を見つけ、自ら学び、考え、判断し、行動し、問題を解決する資質や能力、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心などの豊かな人間性」が大切であると述べられます。その後、03年頃から「人間力」というキャッチフレーズが頻出してきます。その結果、そういった力を育てるのは不断の家庭の教育力にかかるということで、家庭教育指南ブームが起こっているといいます。


第二章                                                 現在の小学生の「努力」観について述べています。日本では努力は誰でもできるものという観念があったといいます(本当でしょうか。10年以上も前に、ごく普通のお母さんから、「努力も才能のうち」という言葉を聞きましたが、研究者は母親の実感と違っているのでしょうか)。アンケートの解析で分かったことは、家族とのコミュニケーションや親からの期待、生活習慣や勉強時間、先生との良好な関係やテスト得点、友達の多さが「努力スコア」に大きく影響する、といった従来からの結果がより増大したことに加えて、「努力が認められる社会だ」と考える子どもだけが「頑張る」という状況だそうです。そして著者は、現在の子ども達は従来の、勉強だけに振り向けられた「閉じた努力」だけでなく、自分のやりたいものに向けた「開かれた努力」をより重視するようになってきているのではないか、と言います。「開かれた努力」というものは、よりいっそう家庭背景や生育環境の質的なあり方に影響されます。そこで、それに抗うような教育政策を、教育社会学者である著者は提言しようと考えます。


第三章                                                   高校生の対人能力についての章です。従来は高校は、将来の進路のトラッキング(振り分け)をする選別機能を担っていました。97年の研究において、それはまだ維持されており、それに加えて母親の学歴の影響力の増大が見られたそうです。しかしながら、現在の高校生は学校以外の生活領域の比重が高まり、メリトクラシーが後退化しているそうです。メリトクラシー的な「勉強」の比重の低下にとってかわったものは「対人能力」の重要性です。学力と対人能力には相関関係が見られる傾向があり、学力と対人能力の両者に良い影響を与えるのが家族コミュニケーションということだそうです。大学進学者の中には学力(近代型能力)が高く対人能力(ポスト近代型能力)が高い場合と、学力が高いが対人能力が低く進路不安を持つ逃避的進学者がいると著者は述べています。また学力が低く、対人能力が高い場合はフリーター等の道を選びがちだといいます。


第四章                                                   若者のライフスキルを取り上げています。ライフスキルとは「家事スキル」、情報機器の活用やコミュニケーション能力など社会生活で役立つ「テクニカルスキル」、精神的な強さを表す「メンタルスキル」の3つを指します。正社員という社会的地位については、学歴などの近代型能力が影響力を持つが、収入や家庭面までの社会的地位について考えると、コミュニケーション能力やポジティブ志向などのポスト近代型能力を兼ね備えていることが重要となってくるのです。     


第五章                                                  母親達の教育責任について書かれています。ハイパー・メリトクラシー化が進む社会の中で、母親達の教育責任は増大する一方です。なぜなら、ポスト近代型能力は家庭の中で形成される部分が大きいからです。そこで人格も学力もという全方位型の教育関心を持つパーフェクトマザーが要求されます。その過重さが若い女性が子どもを持つことに躊躇する原因になると著者は述べています。そして、子どもを持ったうえで、働くか働かないかを考えなくてはならなくなるといいます。こういった社会のハイパー・メリトクラシー化に目を向けることなく、少子化問題や女性の就労問題を論じることはできない、という著者の意見は一部の女性にとっては全くの的外れではないでしょう。


第六章                                                 いまや近代型能力を身につけているだけでは、多様な意味内容を含む「社会的地位」の形成にとって不十分なのです(以前からもそうだと思うのですが、以前以上にということなのでしょう)。そしてそういったポスト近代型能力は家族とのコミュニケーションが高い場合や、親からの期待や理解がある場合に高くなる傾向があるということが明白となったそうです。このことに多くの人が気付いているからこそ、家庭教育の担い手としての女性の生き方に影響を及ぼすといいます。そして、こういったポスト近代型能力は個人のすべてが不断の注目の対象となるので、気を抜くことができません。そういった息苦しさを制御する方策を著者は考えます。いくつかの対処法の中で、著者が提言しているのは、各自が専門性を身につけることといった、古くからの(?)方法です。経理・人事・営業・商品開発・医療・都市開発といった様々な仕事分野でもよいし、接客や芸術といったものでもよい、またアジア・資源・映像といったものでもよく、専門性の切り分け方というのは千差万別であるけれど、個々人がそれぞれの専門性を身につけることによって、ハイパー・メリトクラシー社会の中で、鎧をまとうことが出来るのではないか、と言います。


これから子育てをしていく中で、また、自分自身の生き方として、なんらかのヒントになるかもしれません。この本で書かれていることがすべて妥当かどうかは、よく検証される必要があるでしょうが、一度、皆さんと話し合いの会か読書会ができたらいいなと思っています。海外で子育てをするにあたって、また帰国後の子育てについて、思いを巡らしてみたいものです。                                                                                                                                                                                             



                                                                                                      

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ジャンル:学校・教育
教育雑誌の立ち読み・・・

近所の本屋さんで、最近の教育雑誌をパラパラと立ち読みしてきました。現在店頭に出ているのは6冊。それとこの間まで店頭にあった1冊について。(ほんとにパラパラで申し訳ないです。今度、時間がある時、じっくり見ますね)                    


・プレジデント Family・・・受験を意識した作りのように思います。先月号は有名中高に入れたご家庭特集。今月号は勉強の仕方みたいでした。                       ・ダイヤモンド 父親力・・・この間まで店頭にありました。お父さんが頑張って、こどもの教育(&受験)にどうかかわるか、みたいな感じでした。ちょっと受験系?                         ・edu(エデュー)・・・和み系というか、癒し系の作りです。ガツガツ感はありません。                                                  ・アエラwithキッズ・・・まあ普通に役立つ内容でした。季刊のようです。                         ・日経キッズ・・・先月号は「男の子の育て方」「女の子の育て方」といった内容で、私はなかなか良いなあと思いました。もちろん男の子もいろいろ、女の子もいろいろですけど、タイプは違っても共通して気をつけたほうが良いことなど思い当たるフシもあって。今月号は普通に良かったです。                                                ・こどもの教育(学研)・・・どちらかというと穏やか系に思いました。                ・できる子どもの育て方(アスコム)・・・やっぱり書名どおり、できる子どもを育てるには、といった内容。


私が気に入ったのは日経キッズかeduというところでしょうか。好みや欲するものは家庭によって違いますから、なんとも言えませんが。      


 

テーマ:子供の教育
ジャンル:学校・教育
帰国子女教育の流れを知ること。

海外から帰って来られて、または海外にいらっしゃる間から、日本の帰国子女教育がどういう流れで起こってきて、現在どういう状況になっているかを知っておくことは大変重要だと思います。お母様方の多くは、日本の80年代の帰国子女教育華やかなりし頃のイメージをお持ちだと思います。バイリンギャルが一躍脚光を浴びた時代に10代、20代を過ごされた方もいらっしゃるでしょう。流れを知った上で、今の教育行政関係者、教育関係研究者、学校教員達の間では、どういうふうに帰国子女教育が捉えられているのかを知ることは大切でしょう。


帰国子女教育問題について詳しく調査なさって書かれた本があります。その本から抜粋して、帰国子女教育の流れを説明させていただきます。この分野では、現在の第一人者である佐藤郡衛氏が書かれた本で、1997年2月の発行です。ちょっと古くなっていますが、それ以前についてはよく分かります。この当時、すでに「再構築」という言葉を使われていますから、この頃には研究の最盛期が過ぎていることが察せられます。



60年代 戦後、日本の海外進出に伴い、帰国子女問題が親の側から提議される。(雑誌にその困難性についての記事。主に高校や大学での受け入れ体制の無いことへの不満)。それによって文部省の調査が始まる

 

70年代 海外直接投資の自由化により、ますます海外子女が増加。中央教育審議会(中教審)による提言があり、海外子女教育推進の基本的施策に関する研究協議会(推進協)が結成される。海外・帰国子女に関する研究が始まる。救済の意味合いが強い捉え方(研究においても施策においても)

 

80年代 海外・帰国子女研究が花盛りの時期。85年のプラザ合意からの急激な円高により、貿易摩擦なども起こり、ますます企業の海外進出が増加。80年代後半はバイリンギャルが出てきたり、帰国子女の国際性など肯定的なイメージが流布しはじめる。かつては親が運動の主体だったが、帰国子女本人が語り始める(受け入れ枠で有名大学に入ったエリート帰国)。実践においても適応より、特性伸長が言われ始める。同志社国際ができたのは’80。帰国子女受け入れ推進地域がセンター校の指定などが’83。研究においては、帰国子女の内的環境(アイデンティティなど)の問題と外的環境(日本の側の問題)の考察が増えてくる。また80年代後半には、言語に関する研究が進む。大沢周子「たった一つの青い空」(テレビドラマ「絆」の原作)は’87。                                     なお、青木保の「日本文化論の変容」という本によると、83年から90年にかけて「日本文化はこんな特殊な面がある。だからもっと国際性を持つことが必要だ」という日本文化論が世の中を席巻したと述べられていますが、当時のそういった状況に呼応した形で帰国子女教育論が語られたとも言えそうです



90年代 ロジャー・グッドマン 「帰国子女」という本が’92に出版され新エリートとしての帰国子女を取り上げる。グッドマンは帰国子女問題は当事者の親達が社会的に作り上げた問題だとした。その後、研究において減速が起こる。実践においては、相互交流や共生が強調される。急速に増えてきた外国人子女の問題がクローズアップされてくる。少しずつ、帰国への脚光が減ってきて、帰国であれば誰でも受け入れるといった状況が変化する兆しが、特に後半から少しずつ見えてくる。

この本では、ここまでをフォローしています。その後について、私なりに要約してみます。   


00年代 帰国子女受け入れ推進地域指定もなくなり、外国人子女問題統括される施策が文部科学省から出る。佐藤郡衛氏の居る東京学芸大附属大泉は、外国人子女と一緒に受け入れを始める。(その前に京都教育大附属も帰国学級に外国人子女を受け入れ始める。また兵庫県では芦屋国際中等教育学校ができて、外国人子女とともに受け入れを始めていた) 行政では外国人子女と一緒に国際理解教育として処遇する方向である。一般の学校の受け入れ現況としては優秀な帰国生徒は欲しいが、80年代から90年代初めのような、帰国であればそれだけで良い、とする受け入れ態勢ではなくなっている。

 

このような流れを経て、現在では帰国子女教育には一応の成果があったと行政関係者は見ているし、研究者はもっと興味ある研究対象を見つけている状況です(たとえば留学生や外国人子女、国際結婚家庭など)。また学校関係者は今年からADHDやLDなどの対策が文部科学省からおりてきており、また様々な現実の教育問題もあって、経済的に比較的恵まれた駐在員子弟に対して、あまり丁寧な対処をしていく状況ではありません。

 

なお、「海外における日本人、 日本のなかの外国人」(2003年3月)の中でロジャー・グッドマンが書いた章の要約を書いておきます。          

      
第11章のグッドマンの「帰国子女」論では、帰国子女にまつわる利益集団が同質性といったような文化本質主義や鎖国メンタリティといったような歴史決定主義といった「文化」を使用して、社会に自分達の子どもを、受け入れさせていった、という。しかし今後、日本で社会の周辺にいる者や移民集団に問題が生じた時には、人々は「文化」や「歴史」の問題であると受け流しがちになるのではないかと思える。彼らのような経済的・政治的な境界者は、帰国子女の周囲の利益集団ほど、うまくレトリックを使えないだろう。p.219でグッドマンは、今後は「エリート帰国子女」と「問題をかかえた帰国子女」の2つの層が見られるであろう、というメリー・ホワイト(1992)の説を紹介している。 






日本のこういう状況に対して、どういう意識を持って海外で過ごしていくかは考えておかなければなりません。ただし、私は日本に目を向けなくてはならない、と言っているのではありません。本当の意味での力を子どもにつける努力が欠かせないと思っているのです。